main3
□琥珀馨珈琲店 番外編(無配ペーパー)
1ページ/1ページ
※燐雪
※本編は5月に発行した「琥珀馨珈琲店」になります。その後のお話になりますので未読の方はご注意ください。
今日のイベントの為に何日も前から様々な準備をしてきた。昨晩も燐の家に泊まり込み、細心の注意を払って持って行くものを車に積み込んだはずだ。それなのに朝からのドタバタは今もまだ続いている。
―近所の祭りで小さなテントを出してくれないか。
町内の偉い方々から打診を受けた獅郎が二つ返事で引き受けてしまったのはひと月ほど前の事。本人は「付き合いってのもあるんだよ」と言っていたが、当日は店も営業している。よってそこに配属される人員は最少人数の二名。店には獅郎が残るということで必然的に燐は駆り出されることが決まっていた。もう一人は燐の面倒も見れて仕事もこなせる従業員、となるとペアに出来るのは一人しかいない。
「あれ、水ってこんだけ?」
燐はリストを片手に大きなタンクに入ったミネラルウォーターをぺしぺしと叩きながら慌ただしくコーヒー豆の入った瓶を並べる雪男に声を掛けた。
「重いからとりあえずこれでいいって言ったじゃないですか」
こんな調子でさっきから搬入したもののチェックをしているがほとんど進んでいないのが現状だ。何となくこうなることは予想出来たから車に積み込んだ時に一度チェックしておいて正解だった。だが臍を曲げられては後々面倒なことになりそうだから燐には内緒にしておこうと雪男はそれ以上は言わずに黙々と作業を続けていた。
時間はそろそろ開場時間となる。辺りに設置されたスピーカーから音楽が流れて雑音交じりの放送が客の入りを知らせた。
「あとアレはどこいったっけな…」
「アレってなんですか?お客さん来ますよ」
「んなこと言ったって…アレはアレだよ、えっと…前髪のアレ、アレがねーと…」
置いてあるものを除けながら「アレ」を探しているようだ。雪男の眼鏡も取り上げられて「まさかと思うがこんなところに隠してねーだろうな」と疑いを掛けられたがいくらなんでもそれはない。「突っ込めよ」と怪訝な顔をされたがどうやって突っ込めばいいのかわからないしそんな暇は無い。
次から次へと出てくる問いに雪男は溜息を吐きながら預かっていたピンをポケットから出した。「慌ただしく準備に取り掛かっていたら置いた場所を忘れてしまいそうだから」と自分から預けていたことをすっかり忘れていた燐は居心地が悪そうに苦笑いを浮かべている。
「慌てすぎですよ、緊張してるんですか?」
クスクス笑いながら一歩近づいて長めの前髪に触れ、さらさらと流れる細い黒髪を預かっていたピンでいつものように止めた。くすぐったくて幸せな瞬間。前触れ無く自然に自分に触れてくれることが燐にはとても嬉しい事だった。
「ん、ちょっとそうかも」
髪に触れていた手が離れても距離はすぐには離れない。伏し目がちな睫毛から覗く瞳が日の光を含んで余計に綺麗な色に変わる。思わず手が伸びてしまいそうだ。
「お客さんが見てます」
満面の笑みが燐に向けられ、笑ったままのその口から出た冷静な言葉。腰に触れる寸前のところでハッと我に返ると自分を見ている視線に気が付いた。見下ろした先で小さな男の子が首を傾げてこちらを見ている。
「あの、ぼく、こーひーかいにきたの」
小さな声の語尾は更に小さくなってこの小さな体から目一杯の不安が伝わってくる。たまにテレビで見る「はじめてのおつかい」のようで燐は怖がらせない様に明るく話し掛けた。
「お、いらっしゃい!おとーさんのお使いか?」
男の子の前にしゃがんでニカッと笑う。不安そうにしているその子は何やらもじもじとしていてまだ伝えたいことがあるようだ。
「おとーさんがね、いつものんでるこーひーがね、えっと…なまえがね、おぼえてきたんだけど…」
「コーヒーの名前ってかっこいいけど難しいんだよな」
それでも一人で来るなんて偉いな、と栗色の髪をくしゃりと撫でて用意してきた写真入りのメニューを手に取ってから燐は男の子の横に移動して肩を寄り添わせた。くっついて話をする姿は親子の様にも見えなくもなくてとても微笑ましい。
「あったかいのとつめたいの、どっちがいいかおとーさん言ってたか?」
「あったかいの」
「そっか、じゃあ一個ずつ見てくぞ」
「うん」
一つ一つを指差して声に出して読み上げていく。焦ったり怒ったりせずに気長に付き合う様子はきっと子供が好きなのだろうと想像させた。そんな優しい姿が改めて燐の性格を現す様で、傍で見守る雪男の胸はじんわりと暖かくなる。
「雪男、オリジナルだって。あとココアな、甘めのやつ」
「はい」
持ってきたサイフォンに引き立ての豆や水を準備する。アルコールランプに火をつけて沸騰させる間にミルクたっぷりのココアを用意した。ふと男の子を見るとずっと強く握っていた掌が開いて五百円玉が二枚出てくる。白くなってしまった小さな掌から燐は代金を受け取り、おつりとクッキーの入った小さな袋を頑張ったご褒美だと言って一緒に手渡した。
琥珀色のコーヒーがガラス容器に帰って来る。何度も何度も練習してやっと認められたコーヒーだけに思い入れはあるし、淹れる時はいまだにちょっと緊張する。心を込めて淹れた一杯が客の手に渡る時、これを飲んだ人が幸せになるようにと人知れず願いを込めている。今日もそうして願いと共に簡易的な紙のカップにコーヒーを注ぎ、零れない様にプラスチック製の蓋をした。
「これ僕が一番上手に淹れられるコーヒーなんだ、ココアはいつもよりミルクとお砂糖いっぱいにしたからきっと美味しいと思うよ」
そう言って手渡せば緊張の糸が切れたように男の子の表情は和らいで「ありがとう」とにっこりと笑う。
「おにいちゃんたちなかよしだね?きょうだい?」
燐と雪男は顔を見合わせてフフッと笑った。兄弟に見えるのだろうか。
「兄弟じゃねーけど、家族みたいなもんかな」
「じゃあずっといっしょなんだね」
「あぁ、そーだな」
そんな会話をしていると少し離れた所から男性がこちらに向かって歩いてくるのがわかった。男の子を見ているようだから恐らくこの子の父親だろう。
「あれ、お父さんじゃない?」
雪男が告げると勢いよく振り向いた男の子は両手にカップを持ったまま走り出した。
「おとーさん!」
「おい、危な…」
「大丈夫、お父さんが支えてくれる」
走り寄るその子を父親はひょいと抱え上げて一生懸命に話す子供に耳を傾けた。二度三度と頷いてから笑顔になって、燐と雪男を見ると二人に向かってにこやかに一礼し、その場を後にした。大きく手を振ってからまたきゃっきゃと楽しそうに話す声が残された二人をも笑顔にする。
「ねぇ、燐さん」
「んー?」
立ち上がってから腰に手を当て、背中を伸ばす燐は青い空に向かって顔を上げた。
「僕って家族みたいなものなの?」
「何、気に入らなかったか?」
気に入らなかった訳ではないけれど、家族の括りとはどういう意味で捉えればいいのだろう。それこそ兄弟みたいな関係だということだろうか。うーんと唸っていると燐はまた空を見上げた。
「家族って縁が薄いからさ、ああいうの見るといいなーと思っちまうんだ」
「それは僕も…かな」
晴れ渡った空のずっと上の方で飛行機が飛び、白く長い飛行機雲が後を引いていく。はっきりと残ったそれはなかなか消えずに目を引いた。
「今日これ終わるの何時だっけ?」
「五時ですけど」
「終わったら買い物いこーぜ」
「昨日買ったものまだ冷蔵庫にいっぱい…」
「その買い物じゃねーの、もっと、ほら…アレだよ」
今日は「アレ」ばかりでまた雪男は首を傾げた。食材の買い物じゃなければ…そういえば夏服がぼろいのばっかりだとか言っていたかもしれない。
「付き合ったら何か僕にいいことあります?」
「あんじゃねーの?」
意味深に笑ってテントに戻った燐は客から見えない様に雪男の指先を握った。隣で大好きな笑顔を見てずっとこの人といたいと思う。触れられたのは左手の薬指でそれを選んで握っていることに雪男は気が付いてはいないだろう。
End