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□雨の日、あなたに会いに行く
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小さな頃、今より空は近かった。
回りの景色に遮られることなんか無くて、手を伸ばしたら雲に届くほどに空は近くにあるものだと思っていた。だけど成長するにつれてそれは違うのだと感じるようになった。
高いビル、電線が犇めく澱んだ色、吐き出される排気ガスに染まった雲のグレー。頭上にあるのはいつだって自らを押さえつける障害だ。やりたいことを訴えることも出来ず、自分を理解してくれるものなどこの世界には無いのだと心を無くし掛けていた。
そんな時、心を読むかのように雨が降る。
大好きだった空を近くに感じられるから雨は好きだった。全てを洗い流し、あの時みたいな空の匂い運んでくれる。そしてそんな自分も洗い流してくれるようで。


雨が降った日の朝、燐は乗り換えの駅で地下鉄に乗り換えることをせずに改札を出た。持ってきた傘は手に持ったまま点滅する信号に少し足を早める。三車線ある道路に跨る横断歩道を渡りきって空を見上げた。ポツポツと顔を濡らす雨粒はまだ降り始めたばかりでそれほど強い降りではない。足元のアスファルトは降り始めた雨を含んで色を濃くし、歩き進む間にも所々に水溜まりを形成する。燐の靴も次第に雨染みが濃くなった。着ているシャツが肌を透けさせる頃、辿り着いたのは都会の真ん中にある自然豊かな場所だった。ここは自然の音しかしない。自然の色しかない。自分を受け入れてくれるものしかない。鳥の鳴き声が響き渡る中いつもの道を進み、池に掛かる橋を越えてその先を目指した。両脇を緑が囲む道を行くと屋根のある休憩場所が見えてくる。それは雨の日の燐の指定席。だが今日は先客がいるようだった。
ラフだけどきちんと着込まれたシャツと趣味のいいネクタイ、黒縁の眼鏡が彼の真面目さを引き出しているように見えた。だが次の瞬間目に入った光景に彼への印象は少し変わった。右手に持ったビールがクイと傾けられたのだ。こんな昼間から、サラリーマンらしい社会人が、何でこんな所で油を売っているのか。



「……どうぞ?」



少し離れた所からその光景を眺めている燐に気付いた彼がにこりと笑って自分が座っていた広い方の椅子を空けた。酔っぱらっているとまではいかないようだ。口調ははっきりしている。



「……どうも」



燐はぺこりと頭を下げて空いた椅子に座り濡れた髪の間に指を滑り込ませた。滴る水滴が余計にシャツを濡らしていく。こんなに濡れるとは思わなかったから拭えるようなタオルとかハンカチとか、そういうものは持ってはいない。


「風邪引いちゃいそうですね」


再び聞いたその人の声はとても穏やかだった。脇に置いてある黒いバッグから取り出したタオルを何の戸惑いも無く差し出してまたさっきと同じように笑い掛ける。


「良かったら」
「いや、でも」
「返さなくてもいいですよ」


笑顔とは裏腹にどこか切り離すような言葉に聞こえた。それはそうだ、今初めて会ったばかりの他人なのだから。
燐は「じゃあ遠慮なく」とそれを受け取り身体を拭く。借りたタオルは柔らかくていい匂いがした。洗剤と太陽とあともう一つ違う香り。この人の香りなのだろうか。
髪を拭きながらちらりと視線を向けると彼は足を組んでどこか遠くを見つめていた。その姿がとても様になる美しい人だと思った。視線の先には何がある訳でもない。あるのは雨粒が落ちる池だけだ。再び右手が上がりビールの缶は傾いて喉が上下に動いている。そうして小さな溜息が一つ零れた。何を考えているのだろう。視線は相変わらず正面を見据えたままだった。こんなに真面目そうな人がこんなところでサボりだなんて人は見かけに寄らないと思ったがそれ以上でもそれ以下でもない。人は人、自分は自分。燐はタオルを脇に置いて鞄から分厚いノートとシャーペンを取り出した。
この場所は苦手な雑踏の音や車の音も聞こえない。雨の日は尚の事、人の声は耳に届かない。集中できる環境がここにはある。
隣りの人は相変わらずビールを口に運び、バッグの中から取り出した板チョコの欠片を口に入れている。ビールのつまみにチョコレート。変わっている。でもこの人どこかで……。
燐はノートに書いた文字を消そうと不安定な膝の上で紙に消しゴムを当てる。上手く消すことが出来なくて力を入れると消しゴムは燐の手から逃げるように飛び出して隣りに座る彼の足元に転がっていった。


「どうぞ」
「すみません」


拾ってくれた消しゴムは白くて長い指で隠れていた。男の人にしては綺麗な手だ。消しゴムを持つその指先も見覚えがある様な気がした。だが薄っすらそんな風に思うだけでただの気のせいかもしれない。その手から消しゴムを受け取ったが何だかそのほかの会話も無くて少々居心地が悪かった。燐は自分の足元に視線を逸らしてまたもとの位置に収まり、少し考えてからまた隣の彼の足元を見た。


「あの……どこかでお会いしたこと、無かったですか?」
「……いいえ」
「あぁ、すみません。人違いです」
「いいえ」


やっぱり知らない人だった。やめておけばよかったと後悔しながらまたノートに文字を綴る。頬は少しだけ赤く染まっていた。


「いや、会ってるかも」
「……え」


声の主は鞄を手にして席を立っていた。彼の後ろの雲の中で稲妻が光り、遠くの方で雷鳴が低く響く。


「なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ」


そう言う彼は少し笑って紺色の傘を開いた。一歩踏み出すと砂を踏む音と傘に雨粒が当たる音が混ざり合う。彼は振り返ることなく燐が来た道を進んだ。燐はただそのゆっくりした時の流れの中で彼の背中を見つめていた。






* * *






包丁がまな板に触れる音が心地よく響く。トマト、ゴーヤ、キュウリ。手際よく切っていく間にコンロでは麺が茹でられている。
ここの所雨の日が多くてそろそろかと思っていた。案の定さっきのニュースで西日本が梅雨入りしたと報じられていた。


「ただいま」


玄関の扉が開いて疲れた様子の燐の父親が声を掛けた。手には小さなビニール袋が下げられている。


「おかえり。早かったな」
「たまにはな。コロッケ買ってきたから一緒に食おうぜ」
「あぁ、飯もう出来るから」
「おぅ」


冷蔵庫を開けてビールを取り出した燐の父獅郎は部屋の奥に進んだ。出来上がった食事を両手に持ち、テーブルに運ぶ燐からは獅郎の姿は見えない。だが伸びた影からネクタイを解いているのがわかる。


「九州は梅雨入りだって」
「そうか…最近雨が多いもんな」


余分に皿をもう一枚と小皿を二枚、食器棚から見繕ってビニール袋の中のコロッケを盛り付けた。まだ暖かい。


「だけど俺は雨好きだ」
「ふぅん……何でだ?」


家着に着替えた獅郎が肩に手をやりながら椅子を引く。手に持っていたビールは一旦テーブルの上に置いて手を合わせた。


「教えねー」
「なんだそりゃ」


雨の日は特別な時間があるから。午前中の授業をさぼってあの場所で一人の時間を楽しんでいるなんて親に言えるはずも無い。幸いにも細かいことは気にしないタイプの人だからあれこれ詮索するつもりは少しもないのだろう。その話はそこで終わりだった。


「燐」
「何だよ」
「しばらく海外で仕事するようになった……おまえも一緒に行かねーか?」


獅郎の報告や提案はいつも突然で驚くことに馴れてしまった。今では特に大きな衝撃を受ける事もなくなってしまって、そんなあまり巡り合わないような出来事にも冷静に自分の意見を持っていられるほどに燐は成長していた。今自分にはやりたい事があって、一緒に海外に行くなどちょっと考えられない。


「俺、やりたい事があるんだ。まだ何も詳しく決めてないけどこっちで頑張りたいから」
「初耳だな。やりたい事って?」
「もう少し考えが纏まったら言う」
「一人でも生活出来るか?」
「今までだって似たようなもんだろ?」
「まぁな」


少し寂しげに笑って、獅郎は皿の中のトマトを口に放った。


「おまえには苦労掛けるな。その分だんだんおまえが老けてってるのかなぁ」
「そんじゃあ、俺がこれ以上老けないように洗い物よろしく」

席を立つと獅郎はコロッケを口に頬張ったまま「へいへい」と言ったようだった。あまり気にしてはいなかったが、見下ろした獅郎の髪に以前より白髪が増えていた。老けたのはそっちの方だろと思ったけれどそれは言葉にしないでおく。


「あぁそうだ。これってわかるか?」


テーブルの端に裏返しで置いてあったメモ用紙には走り書きで文字が書かれていた。所々空白のある文章だ。目の前に出されたそれをまじまじと見る獅郎は眉間に皺を寄せて箸を咥えた。


「何?…俳句か?」
「え、っと、短歌…?」
「こんな虫食いみてぇなのわかるかよ。こういうのは学校の先生に聞け」


付き返されたメモを見て燐は再び首を傾げる。


「なるかみの すこし………くもり 雨も降らんか 君をとどめ…ん?」


午前中さぼってばかりいる付けが回ってきたのだろうか。ちょっと難しい宿題を与えられたようで燐はそれから暫くこのメモにある言葉と格闘することになった。






* * *






晴れた朝はちゃんと地下鉄を乗り換えて学校に通う。だけどその反面、こんなことを毎日繰り返していていいのかとも思う。
携帯のアラームが鳴り、まだ眠い身体を起こして一番に思うのは窓の外の事だ。


「雨だ」


天気とは裏腹に気持ちは少しだけ高まっていた。今日も地下鉄には乗り換えずにあの場所へと向かう。傘は差しているけど時々傘を避けて天を仰いだ。様々な形の水溜りを飛び越えて少し早足で。そうして着いた目的地にはやはりあの人がいた。


「あ、こんにちは」
「どうも」


先に声を掛けたのはあっちだった。前回と同じようにまたビール、そしてチョコレート。まだ昼にもなっていないと言うのに。
雨粒が少し溜まった水溜りに落ちる音、池に波紋を立てる音、屋根を叩く音。その雨の音全てが心を落ち着ける。この場所は雨に囲まれているのに雨から守られているようで燐にとってはとても特別だった。
今日もまた鞄からノートと筆記具を出し、そうしてもう一つ気にしていたものを取り出した。


「あの、これ。ありがとうございました」
「あぁ、良かったのに。洗ってくれたの?」
「えぇ、まぁ」


彼はいつも優しく笑う。だがどこか悲しそうに見えた。気になることは沢山あったけれど彼は自分から話そうとはしなかったし、そこに踏み込むほど親しくはない。そんな権利も無い。
燐はノートをぱらぱらと捲ってこの前の続きから書き始めた。時間は刻々と過ぎていく。その間、時々チョコレートを齧る音やビールのプルタブを開ける音が雨に交じって聞こえたりした。


「ねぇ」
「へっ?」


自分の世界に入り込んで時間経過がわからなくなった頃、不意に声を掛けられてやけに素っ頓狂な声が出た。それに燐の手からはまた消しゴムが落ちそうになる。


「学校は?お休み?」
「そっちこそ、会社は?休みですか?」
「……またさぼっちゃった」


彼は年に合わないような言葉遣いで子供っぽい笑みを浮かべた。怒るかと思ったけれど意表を突く可愛い反応に自分もつられて笑ってしまう。


「で、朝から公園でビールなんて飲んでるんだ」
「あぁ、…うん」
「酒だけって、身体に悪いですよ。何か食べないと」
「高校生が詳しいんだね」
「あぁ、俺じゃなくてオヤジが飲む人だから」
「食べ物ならあるよ。食べる?」


鞄からごそごそと出したのはチョコレートの山だ。十枚以上を両手に掴んでにっこりと微笑む彼はやはりちょっとおかしい。


「今、やばい奴だって思っただろ?」
「い、いや」
「いいんだ、どうせ人間なんて皆ちょっとずつおかしいんだから」
「…そうかな」
「そうだよ、君だって」
「……」
「雨に紛れて涙を流していただろう?おかしくなりそうになるとここに来てたんじゃない?……なんてね」


雨は止む気配を見せなかった。だが少し明るくなってきて午後には雨脚は弱まるだろうと感じた。
燐は強制的に掌に載せられた一欠片のチョコレートを口に入れて荷物を鞄にしまう。その様子を少し離れて座る彼は何も言わずに眺めていた。


「そろそろ行きます」
「これから学校?」
「さぼるのは雨の午前中だけって決めてるから」
「ふぅん……じゃあまた会うかもね。もしかしたら、雨が降ったら」



その日は関東の梅雨入りだった。



それ以来雨の日は続き、毎日あの場所へ学校へ行くよりも当たり前のように通い続けた。燐が行くよりも彼は必ず早く来ていて毎日ただ同じことを繰り返した。燐はノートを綴り、彼はビールを飲みながらちょっと難しそうな本を読む。時間が経つにつれて少しだった会話が増えて笑う事も多くなった。座る距離も以前より十センチずつ近くなった。お互い自分のしていた事よりも相手と話をすることが楽しくなった。彼の手の中にあったビールがコーヒーに変わり、燐は自ら濡れるのをやめて傘を差すようになった。

毎日が少しずつ変化して毎日が違った色になっていく。日常が少し変化し始めて、季節も段々と夏に向かって行った。

燐は掲げた目標の為に飲食店でアルバイトを始めた。忙しさの合間に窓の外に見える雨を見ては思いを巡らせた。取り寄せた資料を広げてはその高額な学費に溜息を漏らし頬杖を付く。だが諦められない。


「料理人?」
「今の俺にはまだまだ遠い希望なんだけど、誰かの為に料理作ったり、その人が笑顔になるの見るのが好きって言うか…唯一俺の出来る事の延長線上に料理があると思うから」


出来る事ならそれを仕事にしたい。雨の落ちる池を眺めながら彼に告げた。
そう誰かに言ったのは初めてだった。






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