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□Ring
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深夜の帰宅はいつもの事だった。
鍵を差し込み扉を開けると今日も室内の電気は灯いてはいない。重い身体を傾けて靴を脱ぎリビングの扉を開ければ、引かれたレースのカーテン越しに正十字学園の象徴が淡い光と共に浮かび上がっていた。こうして眺めるにはなかなかいい景色だ。学生の頃は寮にいたからこうして外から眺める事はあまり無かった。あの頃、燐と住んでいた寮も今は取り壊されてもう見える景色の中には存在しない。
鞄を置いて家の鍵をテーブルの上にかちゃりと置いた。乱雑に積まれた資料や新聞の脇に、朝用意しておいたままの皿がある。きっちりと掛ったラップは形を変える事も無くそのままだった。


「……」


するりと脱いだコートは簡単に畳んで椅子に掛け、キッチンに向かい給水レバーを引く。ざぁざぁと流れる水で手を洗ってから冷蔵庫にしまってあった前日の残りのスープを取り出してレンジで温める。何てことのない、いつもと変わらない動線に苦笑いが零れた。一人での食事は味気ない。そんな当たり前のことを知ったのはもう数年前の事。雪男は温めたスープを片手にネクタイを緩めながら先程いたダイニングテーブルに向かった。今日もまた兄が帰った時の為に用意してあった不格好なおにぎりを自分の口へと運んだのだ。
 




 
* * *






今日のテンションはやたらと低かった。月に一度の検査が午後の予定に入っている。
騎士団本部の東、一番奥まで行った所に医療関係の施設が集約されている。薬品、薬草、実験器具や関係資料、歴代の精鋭医工騎士による書物。目にしたことは無いが実験の為の生きた悪魔まで用意されているという噂さえあった。
かつん、かつんと反響する靴音が闇に消える。奥に行けば行くほど薄暗く気味が悪い。本当に悪魔が出てくるのではないかと思うくらいには陰湿だった。
気を抜かぬまま歩き、古い飾り縁のある目当ての扉を見付けてあまり気が進まぬままノックをした。中から「どうぞ」と男性の声がする。いつも検査をしてくれるのは女性だったはずなのに今日は休みなのだろうか。


「失礼します」


入った先に聴診器を首からぶら下げた白衣の男性が背中を向けて座っている。振り向いた彼は年齢的に雪男と同じくらいだろうか。ラフに着ているシャツの首元からはネックレスが覗いていた。


「奥村雪男くん、だね」
「はい」
「ここに座って」


彼は正面に位置する椅子をトントンと叩いてここだと誘導する。そんな子供みたいに扱わなくてもわかるのにと内心ちょっと面白くない。言われるままに指定された場所に腰を下ろして前を向くとかなり近い位置でじっと見つめられていた。何なんだこれは、近いなんてものじゃない。


「…あの…近いです、すごく」
「あ……あぁ!」


慌てながら距離を取った彼はぼりぼりと頭を掻いていた。たまたま近かっただけか、それとも気になる所があったのだろうか。


「僕の顔、変でしたか?」
「いや、変ではないですよ」
「じゃあ何ですか、今の?」
「むしろ色白で綺麗な顔してるなと思っただけです」
「……あぁ、そっちですか」
「そっち、ねぇ」


楽しそうに笑う口元からちらりと見えた牙にどきりとした。兄と同じ、笑った時に見える牙だ。この人もまた人間と悪魔の間に生まれた者なのだろうか。


「今日から私が担当医です、よろしく」
「え、前の方は?」
「寿退社?」


そんな事一言も聞いていなかった。担当医が変わる事すらも聞いていない。これはまたあの支部長の気まぐれに振り回される序章だろうか。


「ほら、ぐだぐだ考えてないでコート脱ぎましょう」


先を急かされてコートのボタンに手を掛けたが、やたらと見られている気がする。というか、ガン見というやつだ。身の危険を感じる程にその視線は真剣だ。


「…あの」
「はい?」
「失礼ながら……ガチですか?」
「え?」
「いえ……何でもないです」


新たな担当医がゲイだとかホモだとか。別にどうだっていいのだがあまりそういう目で見ないでもらえると非常に助かる。勢い余って発砲でもしたら大事だ。
するりと自然に掴まれた腕の袖口が少しだけ上げられて暖かい指が脈に触れる。不思議と嫌ではない。どくん、どくんと彼の脈まで触れた個所から伝わってくるようだ。


「えぇと…じゃあ、採血」


淡々と作業は進む。先程冗談を言い合っていたのが嘘のように口数は少なく、真剣な眼差しだ。


「私、あんまり上手くないんです」


針が皮膚を射すとちくりと痛む。自分でやった方が確実に痛くなさそうだ。しかしその痛みに懐かしさが込み上げる。以前は練習台になったものだ。いつまでたっても上手くならないセンスの無さに呆れたものだ。


「あれ?痛くない?」
「痛いですよ」
「じゃあ何で笑……あぁ、そっちですか」
「くだらない事言ってないでさっさと終わらせてください」
「はいはい」


全く思い出さないのは薄情だと思う。だが、自分でも困ってしまう程に依存している。他人からブラコンだと言われていた頃に反発していた事が今だったらその通りだと頷ける。


「前広げて」


食い入るように見られるのは嫌だが仕方がない。思い切ってシャツを開けるとシャツのボタンに触れたネックレスがシャラと音を立てた。


「取った方がいいです……か?」


彼の顔が、ほんの一瞬だけ寂しそうに歪んだのを雪男は見逃さなかった。言葉が見つからない、そう考えているうちにも彼は今までと同じように表情を戻した。


「大丈夫ですよ。それ、大事なもの?」
「ええ、…とても」


掌で温められた聴診器がひたひたと胸の音を拾う。雪男の胸にあるペンダントがまた小さく音を立てた。






* * *






検査から一週間が経ち、その結果を聞きに再び雪男は検査室を訪れていた。目の前で新任の担当医が検査結果を書き記したカルテをぺらぺらと捲っている。殴り書きのような原形を留めない文字はきっとこの人しか読めない代物なのだろう。あぁ、そういえば兄さんも粋がって筆記体もどきみたいな文字を書いていたことがあったっけ。かっこいいだろとか、出来る人間ぽいとか、その文字でかと馬鹿にして喧嘩になったことも遠い記憶だ。


「結果ですが」
「はい」
「覚醒の兆候は見られません」


今回も難は逃れた。だが少しばかり期待外れのような気持ちになっていた。不謹慎だと言う事はよくわかっているのにまだ燐の傍には行けない現実に胸が苦しくなるような気がした。


「どうしてそんな顔をするのかな?」


下ろしていた視線を声の主に向けた。優しげな表情だった。全てを聞いてあげる、そういう表情だ。どうしてそんな顔をするのか雪男は逆に聞きたかった。


「大丈夫です」
「大丈夫かなんて聞いていないですよ。どうしてそんな顔をするのか聞いたんです」
「それは…」


言えるはずがない。
僕は悪魔になってしまいたかった。
悪魔でなければ通ることの出来ない虚無界門を超えてその先に行きたかった。
この目で確かめたかったのだ、その先に踏み入れた兄がどうなったのかを。
そして、出来る事なら。


「キミは大丈夫だと自分に言い聞かせているだけだろう?」
「……もういいですよね、失礼します」


背を向けて扉へ向かう時、小さく「ゆき」と呼ばれた気がした。ハッとしたがおそらく空耳だろう。そう呼ぶのは燐だけだ。
親身になってくれなくてもいい。誰かに聞いてもらおうとか居場所が欲しいとかそんな安い感情は持っていない。
僕の生きる意味を教えてくれるのは兄さんだけなのだから。






* * *
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