神桃学園

□春の香り
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 春が来た。木の香りがほのかに漂う宿舎の窓から、一輪、二輪、と開き始めた桜の花びらが目に入る。まだ蕾が大半だが、どれもこれも、今にも弾けんばかりに膨らんでいた。

「ここでまた、この風景が見られるなんてね」

 窓辺に座る少女は、一人呟き目をつむる。

 鬼は消えて、この学園の存在する意味は無くなった。当然すぐに廃校となるはずだった。しかし、生徒たちの「この学園で卒業したい」という声が多かったために、今いる在校生が卒業するまでは存続することになったのだ。

「ふふ」

 笑いが込み上げてくる。これほど恐ろしい学園にでさえ、愛着を持てるなんて、人間は不思議な生き物だわ。まあ、自分もその人間の一人なのだけど。

「愛子」

 外から呼ばれて見ると、整った顔立ちをした男がこちらを嬉しそうに見上げ、大きく手を振っていた。えらく上機嫌だ。

「あら、秋月先輩。何か用ですか? せっかく花見を楽しんでたのに」

「一人で花見? 寂しいなら強がってんと、こっちおいでや」

「そんな少女漫画みたいな台詞、私には効きませんよ。大体、一人が寂しいっていう固定観念は、先ず頭から取っ払うべきで、」

「相談があるから、降りてきて。な、頼むわ」

「始めからそう云ってください」

 愛子はため息をつくと、宿舎から出て秋月の元へ歩いて行った。師弟関係を結んで四年たつが、女を口説くような話し様にはいい加減うんざりしていた。それがこの男にとって自然体なのだから、仕方ないが。

「相談って何ですか?」

「神谷とミチルちゃんのこと」

「二人に何か問題でも?」

「ありありやで。あの二人、どう考えても両思いやのに、キスの一つもせーへん」

「……それで?」

 しらりと目を細める愛子に、秋月は焦ってまくし立てた。

「デートすらせんし、手も繋がん! 意味わからへんわ。俺、どうしたらええねん」

 秋月が頭を抱えると、愛子は苦笑いした。

「それは、二人とも恋愛初心者な上に、真面目で慎重で恥ずかしがりやだから。硬派というやつですよ、問題ありません」

「そうか……それで、その硬派はいつ溶けんねん。俺も神谷も、あと数日もせん内にここを出るんや。早いこと溶けてもらわんと困る」

「そんなの二人の勝手だと思いますが」

「俺が、楽しくないやんか」

「先輩が楽しみたいだけじゃないですか」

「そうや、あかんか愛子」

「あかんと思います」

 完全に呆れ果てて、回れ右をしようとした愛子の腕を、秋月ががっしりと掴んだ。そのまま、近くの木の幹にやんわりと体を押し付けられる。

「あかんか……?」

 慎重な顔が、ゆっくりと近づいてくる。頬に吐息が当たるほどの距離。愛子は自分の心臓がばくばくと鳴っているのに気づいて、唾を吐きたい気分になった。

 ――自分の中の女の子よ、静まりたまえ。

 魅力的な異性に接近されたら、誰でも緊張する。恋などではない。ドキドキするのは脳内麻薬のせい。顔が熱いのは、交感神経が刺激されて代謝機能が高まったからだ。こんなの、全く取り乱すようなことじゃない。

「わかりました。協力しますから、離れてください」

「さすが愛子」

 秋月が満足げに離れる。愛子は留めていた息をはいた。少し反撃したい気分になって、挑戦的な目で秋月を見上げる。

「実は神谷先輩の為ですか?」

 秋月はにっこり笑って答えた。

「まさか。ミチルちゃんが真っ赤になってるところを見たいだけや。じゃあ、俺は神谷の阿呆をなんとかするから、愛子はミチルちゃんの方を頼むな? それでは、作戦決行! オー!」

「おー……」

 ――何故かこの男には、勝てる気がしない。

 こうして、お節介も甚だしい、ラブラブ作戦が始まったのだった。




 その男は、放課後になっても参区に留まり、新館の中庭で素振りに励んでいた。近寄り難い、生真面目そうな表情を顔に張り付け、延々と棒を回し続ける。棒は寸分違わず、同じ軌道を描いていた。

「神谷くーん」

 秋月が木の影からササッと踊り出ると、神谷は頭上にかかげていた棒をぐるりと反転させて、蓋に覆われた切っ先を横に走らせた。秋月はとっさに木の枝を掴み、自分の体を持ち上げる。棒は秋月の爪先をかすり、幹にぶつかって鈍い音をあげた。

「鈍ってはいないようだな」

「阿呆。冷や汗かいたわ。鬼はもう消えたっちゅうのに、相も変わらず物騒な奴やな」

 もう門が閉まる時間やで、とふて腐れる秋月に、神谷は汗を拭きながら「ああ」と答えた。

「それは、悪かったな。わざわざ知らせに来てくれたのか」

「ま、それもあるけど。やっぱりお別れも近いんやし、ゆっくり話ししたいやん? 一緒に帰ろ」

 案の定顔をしかめる神谷には目もくれず、秋月はさっさと歩き出した。

 日向の道を下り、ガス灯の一つ点った広場に入る頃、二人の女生徒がぺちゃくちゃとお喋りしながら、歩いてきた。秋月は神谷に振っていた一方的な思い出話を中断し、女生徒に向かって手を振った。

「りんちゃん、はなちゃん。今日も綺麗やなあ」

 二人はぱっと顔を赤らめた後、けたたましく笑い声をあげた。

「もう、秋月君ったら」

「口が上手いんだから」

 こういう光景を見れば、神谷は決まって非難めいた顔で見てくる。しかし今日は、様子が違った。

「あれで、女は喜んでいるのか」

 真剣な表情で離れていく女生徒の背中を目で追っている。秋月は「お、」と思った。

「女の子の口説き方に興味がおありで?」

「ちがう。俺はただ」

「はいはい、神谷はミチルちゃん一途やもんなあ」

「あ、いや、だから……」

「だからミチルちゃんをどうすれば喜ばせられるかと」

「ああもう、一回黙ってくれ」

 秋月のペースに巻き込まれないようにと、制止をかける。とはいえ、彼の云うことは的を獲ていた。神谷はミチルのことを大切に想っていたものの、女の子として接するとなれば、どうすればいいのか分からなくなった。その結果、鬼が消えてから時間のたつ今も、会えば戦闘術の話しばかり。他の話題を出そうとしても、筋の通らないものになり、挙げ句、長い沈黙が訪れる。そんな自分を情けないと思うようになったのは、恋を知ってからのことだった。

「お前は、凄いな」

 神谷がポツリと呟くと、秋月は大きく目を見開いた。しばらく声が出ないようだった。

「神谷に褒められた」

「褒めてはいない」

 神谷は断固として否定した。

「ただ、よくも次から次へと話題が出てくるものだと、呆れ半分に感心している。どこでそんなスキルを手に入れたんだ」

「どこでって、大袈裟やなあ。フツーに十八年間生活してきただけやけど? お前の方こそ、どこでそんな不器用さ身につけてきたんや」

「…………」

真剣な顔で考え出した神谷に、秋月がぷっと吹き出した。

「まーあ、ええやん。過去のことは。大切なんは未来やで。これからはこの俺を、先生と敬うように――あ、」

「……田中か」

 二人の視線の先には、全速力で走るミチルの姿があった。
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