神桃学園
□拾弐
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「田中っ!」
――あれ、先輩の声が聞こえる。
ついに幻聴まで、と思った矢先。鬼が視界から消えた。刃の交わる音が響き、鮮血が頬を濡らす。
その後の記憶は朧げだ。ただ、誰かの背中におぶさられていたことと、その温かさだけ、たしかに覚えていた。
目覚めると、青白い天井が見えた。左腕が痛い。
ミチルは、しばらく何も考えられず、ぼんやりと天井を見ていた。上体を少し起こしてみる。包帯でぐるぐる巻きにされた自分の腕と、寝息をたてる神谷が目に入った。
――かわいい寝顔。
窓から差し込む西日が、神谷の睫に影を落としている。テーブルに飾られた花が、薄紅色に輝いていた。
温かいものが胸に突き上げる。
――生きててよかった。
生きていれば、こんなに美しい風景を見ることができる。美しいものを見て、幸せだと感じられる。
――美しいものを美しいと感じる意味は、どこにあるのかしら。
愛子の言葉を思い出す。そんなことは、わからない。
――でも。
「生きてて、よかったあ……」
ひとりごつと、神谷が急に体を起こした。
「田中!」
「はいっ!」
ミチルはびっくりして反射的に返事した。泣いているのか、と尋ねられ首を振る。
「腕は痛むのか」
ミチルは、いいえ、と答えた。
「左腕の骨が、ひびが入っている。足にも、切り傷があるそうだ」
「そうですか……」
「すまない」
消え入りそうな声に、胸が締め付けられる。
「どうして、先輩が謝るんですか」
「秋月が……云っていた。女は体に傷を負うと、傷が残ると、辛いんだと。俺は、お前を守ると約束したのに……」
ミチルは、神谷の頭にぽん、と手を置いた。
「ピッタリサイズでは、ないですね」
「…………」
「先輩は、私を守ってくれましたよ。傷は、私の選んだ行動が招いたことですから、自分の責任です。先輩のせいじゃありません。それに、ぜんっぜん気になりませんから」
神谷は、ミチルの手を下ろすと、それを握りながら、立ち上がった。泣きそうな表情で見つめられ、視線が反らせなくなった。
「どうしてだ」
神谷が云った。片手が肩に置かれ、そのまま背中へとすべり落ちた。ミチルは神谷の胸の中に、しっかりと抱きしめられていた。
「どうして、頼ってくれない」
「先輩……」
ミチルは目をつむった。お互いに何も云わず、しばらく、そのままだった。永遠のように思われる時間だった。
やがて、神谷が「すまん」とミチルを放した。額に手をやり、息を吐いた。
「俺……変だな」
そのまま病室を出て行こうとする神谷。ジャケットの裾を、ミチルは掴んだ。
「田中……?」
「先輩は……たしかに、勉強ができて、何でもできて、顔もいいし……完璧だけど。そんな先輩が、私は結構好きですよ」
神谷はふ、と笑った。
「やめろ、また抱きしめたくなるだろう」
自分で云って恥ずかしかったのか、顔を赤らめて去って行った。
残されたミチルは、枕をぎゅうっと腹にかかえた。心臓が早鐘のように打っている。
――どうして、抱きしめたりしたの。
知りたいけど、知りたくない。
知れば、未知の世界に誘われそうで怖い。今までの関係が崩れてしまいそうで怖い。自分が弱くなってしまいそうで怖い。怖いから。この愛おしさを殺して、何事もなかったかのように通り過ぎることが出来れば、と思った。
それから、色んな人が見舞いに来てくれた。紫苑寮の皆、綾小路と笹川。愛子と秋月。鈴岡。クラスメート。
いたわられたり、泣きつかれたり、謝られたり。そんな日々が、当分の間つづいた。
だけど、彩の姿だけは、一度も見なかった。幸恵に聞くと、彼女は悲しそうに首を振った。
「まさか、鬼に……!!」
いいえ、と幸恵。
「ただ。来れるような状態ではないの」
その理由を知ったのは、退院してからだった。
彩は目を伏せたまま、一日中ぼうっと過ごしていた。声をかけても気づかれないか、一言返事を返すだけ。まるで心と身体が分離したようだった。
夜になると、彼女の部屋から何度も泣き叫ぶ声が聞こえた。その度、幸恵が駆け付けて行った。
「彩さんに、何があったんですか」
青く霞んだ、夜明けの静けさの中。あずまやで二人、向かい合って座った。
「あの日、私は、塩倉荒らしのリーダー……彩の思い人を捕まえるよう、命じられたの」
幸恵はその日のことを、ありありと話してくれた。彩の強い思いに、幸恵が折れたこと。そして、鬼が現れたこと――。
「彩っ!!」
一直線に、突き進む刃。彩に避ける術はなかった。しかし、その体に刀が届く直前、彩は強い力に突き飛ばされた。
何が起こったのか、とっさに分からなかった。追いついた幸恵が鬼を倒してから、やっと、リンタが血塗れで倒れているのに気づいた。
「リンタさん……?」
彩は傍まで寄って、きょとんとその顔を覗き込んだ。息をするのが精一杯という苦しげな顔に、少しずつ状況を理解してゆく。
「うそ……なんで……」
彩は首を振った。こんなのは、悪夢だと思った。
リンタは小さく笑った。
「俺……なに、して……んだ、ろ」
「リンタさん」
「この、まま……死ぬのか。なんのため……生まれてきた、か。分からな、じゃ、ないか」
ヒュー、とリンタは息を吐いた。唇が紫になってゆく。目の下にも、黒い影が浮かんできた。
「リンタさん」
彩は悲痛な叫び声を上げた。
「彩……」
冷たくなってゆく体。嫌だ、嫌だと叫んでも、命の灯が小さくなるのを止められない。
「いや……死なないで。死なないで、お願い。大好き。大好きなの……死なないで……死なないでえ」
泣きじゃくる彩。
リンタは、彼女の濡れた頬にそっと触れた。諦めたような笑いが漏れる。
「ま……ぁ、いいか……」
頬から手が滑り落ちる。彩ははっとして、その氷のように冷たい手を握った。目は固く閉ざされ、口元には微笑みが浮かんでいた。
「リンタさん……リンタさん」
彩が体をゆする。何度も自分を抱きしめてくれた体。もう既に、動かない体。
彩はその体を引き寄せ、天が割れるような声で、絶叫した。
幸恵の話しが終わった時、再び彩のうなされ声が聞こえた。
幸恵があずまやから出て行き、ミチルは一人になった。
「リンタさん……」
祈るように結んだ両手が、膨らんでくる怒りに、固くなった。爪が指に食い込む。
「……どうして……こんな酷いことを」
空をきっと睨む。
「どうして……!!」
その時、苔の生えたワゴン上にひっそりと置かれた、金魚鉢が目に入った。ひらひらとレースの尾を泳がせる、美しい金魚たちに目を奪われる。
「……金魚」
その美しさは、人の手によって創られたもの。鑑賞する目的で、創られたもの。
ミチルは椅子から立ち上がり、上からそっと、金魚たちを覗き込んだ。
――あなたたちは、知ってるの?
自分が存在する意味。生きるか死ぬか、すべて人の手に託されていること。
――ねえ、知ってるの?
これが神様の気持ちなんだろうか。純度を保った悲しみが、次から次へと溢れ出す。
――悲しい。
鬼と金魚は同じだ。そして、人もそうでないと、どうして云える。
「神様なんて、きらい……きらい」
学園では、授業が再開していた。しかし、紫苑寮の皆は一丸となって、出席しなかった。彩の側にいると決めたから。教師たちも、何も云ってこなかった。
塩倉荒らし騒動の結末については、学園から手紙が届いた。誘拐されていた人たちは、みんな解放されたらしい。関わった住民は、市街区から肆区の辺境に移されたが、生徒は、一ヶ月の謹慎で済んだとのこと。これには、夏見の猛反発があったが、彼女も責任を問われていたので、却下されたらしい。
幸恵が彩を支えながら、階段を下りてくる。途中で何度も躓きかけ、見ている方は肝を冷やした。もう何日も、食事を取っていないのだ。
転げたサンダルを薫が拾い、彩の足へと戻してやる。彩は疲れた顔で薫に笑いかけた。
「ごめんね、薫。あんたは、あたしとは違っていい子だよ……本当は、分かってたんだ」
薫は悔しそうに唇を噛み、自分の部屋へ走って行った。扉の閉まる音が、はっとするほど大きく響いた。
階段を下りきったところで、彩は座り込んだ。