神桃学園
□拾弐
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ミチルと愛子が、広場まで来たとき、誰も戦かっていなかった。
「あれ……?」
噴水の辺りに、人が集まっている。二人が掻き分けてゆくと、そこには無残な光景が広がっていた。
「……っ!!」
噴水の水は赤く染まり、そこには、目をかっと見開いた白影隊員が仰向けに浮かんでいた。肩から背中にかけて、深い刀傷を負っている。淵にも鮮烈な血がこびりついていた。
ミチルは近くにいた男につかみ掛かった。
「どういうことですか! 誰が、こんな……ことを」
男は力無く首を振った。
「ついさっき、鬼が来たんだ……」
ミチルは手を離すと、後ずさった。
「ここは肆区ですよ……?」
誰かが怒ったように云った。
「夏見のせいだ! あいつが、弐区の人員を割き過ぎたから、こんなことに……!」
「いいや、元々は塩倉荒らしのせいだ!」
怒声が飛び交う中、愛子が冷静に尋ねた。
「鬼はもう倒したの?」
皆が黙り込んだ。老人の声が答える。
「肆区に来た鬼は五匹じゃ。そのうちの二匹は退治されたが、他は人の気配につられて、街や森の方へ走っていきおった。まだ行方知らずらしいのぅ」
「そんな……」
その時、放送が流れた。
『鬼が肆区に三匹、参区に六匹確認されています。皆さん、落ち着いて速やかに、中等部校舎へと避難してください。白影隊員は壱班から伍班まで参区へ、陸班から八班までは肆区で鬼の捜索、討伐に向かってください。それ以外は市街区で住民の保護を。金色桃組は住居区で生徒の保護をお願いします。なお緊急の為、士道を重視しないこと。繰り返します。一般生徒は、速やかに、中等部校舎へ避難してください』
愛子は市街区の方向へ目を泳がせていたが、拳を握ると、住居区へ続く並木道に向かって走り出した。噴水にたむろしていた人たちも、死体を引き上げて、中等部校舎へと向かった。
ミチルはその場で一人、立ちすくんでいた。
――皆は、どうしているだろうか。
鬼の騒動に紛れて、塩倉荒らしの暴動などとうに忘れ去られている。リンタや彩は、どこに居るのだろう。
ミチルは人波と反対方向に歩き出した。しかし、階段を上る前に、鈴岡に出くわしてしまった。
「なにをしているのよっ。早く、避難しなさい」
「でも……塩倉荒らしは……」
鈴岡はミチルの表情に、何か感づいたようだった。
「だぁいじょうぶよ! 彼らも避難しているわ」
「……そう、ですか。あの、木嶋先輩を見掛けませんでしたか?」
鈴岡は間をおいてから、歯切れの悪い返事をした。
「え……ええ。見掛けたわよ」
そして、ミチルが追求する前に話題を変えた。
「田中さん。あなたも確か、剣の腕がたつのよね」
「棒の方なら、そこそこ」
「それでいいわ。避難所の周りに立って貰えないかしらん」
「わかりました」
役目を貰えたのは嬉しかった。ただ避難して、事の終わりを待つ気にはなれなかったからだ。
寮へ棒を取りに返る。並木道は白影隊に保護されていた。安全そうだが、人が多過ぎる。ここを逆走するのは煩わしい。そんなわけで、ミチルは道の脇を駆けぬけ、森に入った。
「田中、先輩!」
紫苑寮の近くまで来たとき、泣きそうな声に呼び止められた。見れば、笹川が真っ白なスカートを茨に引っ掻けて、動けなくなっている。
「みんなに、気づかれないで、置いてかれちゃって……」
めくれあがったスカートを、彼女はなんとかして抑えつけようとしていた。可愛らしい仕草に、少し笑ってしまう。女の子として見習わないとなあ、としみじみ考えてしまった。
「大丈夫、大丈夫」
安心させるように優しく云って、スカートを外すのを手伝う。
「ありがとうございます」
「うん。並木道まで送るよ」
笹川はふんわり笑って――その顔が不意に凍りついた。
「あ……あ、あれ」
指さされた方を見る。岩影から小柄な少女が、瞳孔を開ききった目でこちらを凝視している。
「ふ、た、り」
鈴の鳴るような、不思議と頭に響くような声で少女は呟いた。
――鬼。
戦慄が走る。ミチルは、半分パニックになりながらも、鬼の視線がある一点に集中しているのに気がついた。それは、笹川の白いワンピースだった。
「笹川ちゃん。スカート脱いで」
「えっ……」
「早く」
笹川は戸惑いながらも、ミチルの切迫した声に従った。ミチルはスカートを受け取ると、変わりに膝丈まである自分のジャケットを、笹川に押し付けた。
鬼の視線が僅かにずれる。
――やっぱり。
「合図したら逃げて」
ミチルが云うと、笹川は目を見開いた。
「そんなこと……っ」
「誰か呼んできて。私なら間を持たせられるから」
勝手に口から飛び出した、自信満々の言葉。笹川は安心したように頷いた。
鬼が片目を覆い、一歩片足を引いた。
「行って!」
笹川が走り出すと同時に、ミチルはワンピースを旗のように、風にはためかせた。鬼が一直線にこちらへ向かってくる。闘牛の要領で、ミチルは一撃目をかわした。ワンピースを背中に引っかけ、寮へと向かう。
――怖い。
しゃがみ込んで、頭を抱えてしまいたいくらいに。
授業中、文章の朗読を頼まれることがある。初めは、気持ちが追いつかないまま読み始めるが、途中からしだいに実感してきて、声が震え始める。今の恐怖は、それに似ていた。
足から力が抜けていくのに伴い、焦りが増してくる。額から汗が吹き出した。
その時、神谷の声が頭の中に響いた。
――怖いという感情を、受け入れることだ。
「怖い」
ミチルは声に出してみた。
鬼の手応えのない足音が、近づいてくる。
「怖い、怖い、怖い……死にたくない!」
呪文のように唱え続ける。不思議と心が落ち着いてきた。寮はもう、目と鼻の先だ。
――間に合え……!
入り口のアーチを潜る。皆は既に避難しているようで、中はしんとしている。ミチルは安堵の溜息をついた。
自分の部屋に飛び込む。ベッドの脇に立てかけてあった棒を、引っつかむ。ほぼ同時に、鬼が現れた。
棒の先を捻って外す。そこから現れた白刃に、鬼は目を細めて見入った。その表情に、ミチルはぞっとした。
中央の窪みを確かめ、しっかりと握る。強く握ると、刃のところに毒が流れた。
鬼が再び攻撃前の合図をした。低姿勢から飛び上がるように、遅いかかってくる。
「……っは」
ミチルが避けると、窓の割れる音がした。下に落ちたか、と思ったが、淵から手が伸びて、続いて体も現れた。
「ど、う、し、て、殺してくれないの」
しっかりとした言葉に、ミチルはたじろいだ。何と答えればいいのか分からず、刃を向けた。
鬼が片目を隠した。そうすることで焦点が合うのだと、ミチルはこの時、初めて気がついた。
――片目を隠すときが、チャンスだ。
「うわああーっ」
棒を振り下ろす。肉を裂く嫌な感触が走り、棒を取り落とした。拾おうとすると、腹に衝撃が走り、体が弾き飛ばされた。開いた扉を通過し、空中廊下の手摺りに足が引っ掛かる。そのまま、頭が垂れ下がり、壁で頭を打った。
「……ぐっ」
意識が朦朧とし、真っ逆さまに落ちてゆく。池の水面に叩きつけられ、鼻の中に大量の水が入ってきた。余りの苦しさに、足をばたつかせる。必死に手をのばし、池から上半身だけ這い上らせる。激しく咳込む。そこで力尽きたように、体が動かなくなった。左手の感覚は、完全に麻痺していた。
――鬼がくる。戦わないと。
それでも体は動いてくれない。ミチルの頬に涙が伝った。
――死にたくない。
鬼の影が、死神のごとく目の前に下り立つ。鞋(ワラジ)を履いた小さな足が見えた。
――ああ、死ぬんだ。
まだ、やらないといけないこと、いっぱいあるのに。やりたいこと、いっぱいあるのに。
だけど、もう少し時間が貰えるなら、皆に会いたい。お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん……。中学生のときの友達。紫苑寮のみんな。折れた剣の仲間。ユキに、シガノに……神谷。
「かみ、や、せんぱい……」
一度でもいいから、先輩にぎゅって抱きしめられたら、幸せだったろうな。
――こんな時に、何考えてるんだか。
苦笑がもれる。
――でも、仕方ないよね。私、ミーハーだもん。