短編集
□犬と烏
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これは、坂の上の家に住んでいる犬の話だよ。
名前は雪といった。
それはもう、名前の通り、純白の絹のような毛並みに覆われた綺麗な犬だったんだ。
飼い主に凄く可愛がられていてね、朝夕の飯だって、愛情のこもった手作りが多かったらしい。……ああ、そうそう。運のいい時はお粥の残りや魚なんかも、ね。
雪は庭や町の中で過ごすことが多かった。
だけど、あまりに幸せに育てられていたもんだから、近所の犬には嫉妬されて、友達が出来なかった。
友達がいない、というのは寂しくて心細いものさ。
それが例え、缶の中の空気でも、蟻でも、人間でもね。
雪は寂しかった。
寂しくて、寂しくて、毎晩ふらふらと町中歩き回って夜泣きし、とうとう飼い主に怒られてしまった。
「甘やかし過ぎたんだね……近所のおばさんに苦情を言われたじゃないの!!」
それから、今まで自由だったのを、庭に鎖で繋がれる事になったんだ。
雪は更に、元気がなくなった。
朝夕の、飯の時間以外では、ほとんどぐったり寝ていたよ。
カラスがやって来たのは、そんな頃だった。
白い羽の混じった、いかにもみすぼらしい感じのカラスでさ、もう既にドックフードに変わっていた、雪の飯を啄むつもりで来たんだろう。
いや、実際そうだった。
雪は、自分のドックフードを満足そうに突いているカラスを、じっと見ていた。
吠えて追い返そうとも、押しのけて食べようともせず、ただじっと。
とうとう、不審に思ったカラスは、三分のニほど残したままで、雪に向き直った。
「おまえ、ちっとは反抗しろよ。盗みがいがねえじゃねーか」
雪は驚いていて尻尾をぴんと立てた。
「わたしに、話してくれるの!?」
「はあ??」
「わたしと、友達になってくれるの?」
「……なんで、そうなンだよ」
真っ平だ、とカラスはけらけら笑ったが、その割には毎日やって来た。
勿論ドックフードを頂戴するため、というのもあったが、それだけじゃなかったんだろうよ。
一匹と一羽は、よく話した。
雪は、今までの寂しさを滝が流れるように話し続け、カラスは聞き役の方が多かった。
「わたしは、綺麗過ぎるから腹がたつんだ、て隣の犬のチロさんに言われた」
カラスは、ふーんと首を傾けた。
「そういうもンか。俺は、見ての通り、みすぼらしい風貌だからよ……お前といると恥ずかしいって、外れ者にされたンだぜ」
「じゃあ、わたしと同じだね。綺麗とみすぼらしい、って似てるのかも」
「なるほどなァ。普通じゃないと仲間じゃない、てな訳かい」
カラスは涼しい顔をして、青い空をぼうっと仰いだ。
つられて、雪も空を見上げた。
「空は溶け合ってるから、いいよね。普通とか、普通じゃないとか、気にしなくていいもの」
「そうだなァ……」
そう答えたカラスの横顔は寂しげで、雪は胸がきゅう、と切なくなるのを感じた。
それは、愛おしさのような、痛みのような――雪の初恋だった。
それから、三度の冬を通り越す頃まで、雪とカラスはずっと一緒だった。
飼い主は、何時の間にか、雪に冷たくなっていた。
櫛でといでもらえなくなった毛並みは、どんどんと艶を失って、ところどころ絡まっていた。
だけど、雪は決して辛くなんかなかったよ。
大切な友達がいたからね。
ある凍てつくような夜、カラスは雪の庭まで飛んできた。
雪とカラスは寄り添って、透き通る星空に耳をすましていた。
「綺麗な音。まるで小守唄みたい……」
「雪よ、星が好きか?」
うっとりする雪に、カラスは苦笑した。
「うん!大好き」
でもね、と続ける。
「星が綺麗なのは、あの漆黒の闇の中に在るから、なんだよね。だから、やっぱり空が好き」
「おまえ、本当に詩人だな」
カラスは目を細め雪を見て、星みたいだ、て思ったんだと。
雪は、あっ、と叫んだ。
カラスが雪の視線の先を見ると、調度流れ星が消えるところだった。
「ね、名前つけてあげるよ」
雪は、ふいにカラスにそう言った。
「別に構わンぜ。名前なんか、めんどくせえだけだ」
その返事にシュンとした雪を見て、カラスはぼそっと言った。
「まぁ、おまえに付けられるなら、悪くないかもな」
「ほんと!?」
「ああ」
「じゃあ、“煤(スス)”!!」
「ひでぇな……」
「冗談だよ、“空”!そらなら良いでしょう?」
そらは恥ずかしそうに俯いた。
「悪くない」
「もう、素直じゃないなァ……」
新しい生命が芽吹き始める頃。
そらは、もう毎日ほどは来なかった。
どんどんと雪に会う回数が減り、太陽が高く上がるようになると、それさえ、ぷっつり途絶えてしまったんだ。
雪は待っていた。
固い鎖に繋がれたまま、空を見上げて待っていた。
信じなきゃ、と思った。
大切な友達を、わたしが信じないで、どうするのかと思った。
もしかして、病気になってしまったのかも、と心配する日もあった。
もしかして、嫌われたのかも、と不安になる日もあった。
だけど、瞳だけはずっと、高い空を見据えて、真っすぐだった。
「わたしは、ずっと大好きだよ!!」
空に向かって吠える犬に、行き交う人々は「痴呆症かねえ……」と囁き合った。
飼い主には、怪訝そうな顔で見られた。
それでも構わない。
「わたしは、ここに居るよ!」
また、雪が散らつき始めている。
そらはまだ、やって来なかった。
「ねえ、雪さん雪さん」
そう垣根の間から声をかけたのは、隣の家に住む犬だった。
「チロさん、なあに?」
雪は前のように、綺麗な姿ではなくなっていた。
毛並みは汚れていたし、随分と痩せてしまったていたから。
それに同情してか、チロは度々話しかけてくれるようになった。
「あなた、ちゃんと食べさせてもらってる?今にも倒れそうじゃないの……」
「ええ、大丈夫、大丈夫……」
雪はそれしか言わなかったから、チロも最近は諦めていた。
だけどこの時、体はもう限界にきていた。
時々、ふわっとなって目の前が見えなくなったりしたし、空ばかり見上げていた結果、肩の筋肉が硬直してしまった。
「そら……」
もう会えないかもしれない。
そんな気持ちで目覚めた朝、雪は鼻の上に何か落ちているのに気付いた。
なんだろう、と思い払ってみると、それは一枚の白い羽だった。
朝日に照らされて、きらきらと輝いている。
暫く見とれていた雪はハッとして、庭中を見渡した。
「そら……!!」
柔らかな芝生の上で、羽が少なくなり地肌があらわになったカラスが、丸くなっている。
雪は慌てて駆け寄った。
動かないそらの周りをぐるぐる廻り、額に鼻を押し付ける。
すると、漆黒の目がうっすらと開かれた。
「雪……か」
雪は心配そうに空の目をじっと見つめた。
「すまねぇ、な」
「……ううん、ドックフードいっぱい残しといたからね。いっぱい食べてね」
雪はそう言うなり、器を持ってこようと、そらに背を向けた。
「待て、行くな」
そらの弱々しい声に、雪は振り返った。
「星を取りに行こうと、したんだ……」
「え、」
「いつか、俺が死ンじまっても、ずっと……ずっと一緒に居れる……よう、に。でも、無理だった……ごめんな」
雪はパタンと座りこんでしまった。
「おまえ、寂しがりだから……心配でよ、だから……」
「ばか、ばか、ばか……!」
雪が首をぶんぶん振ると、そらは苦笑した。
「ひでぇな……」
雪は出来るだけ笑顔で言う。
「冗談……だ、よ」
それに答える言葉はなかった。
満天の星空が広がっている。
月明かりに照らされて、純白に輝く雪が舞い降りた。
足先に落ちたそれは、よく見てみると白い羽のようだった。
「そら……」
空に溶けちゃったんだね。