神桃学園
□玖
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旧館の調理室から、バタークッキーの香りが漂ってくる。中庭で、あいあいと繁る草を刈っていた事務員は、その甘い香りに、思わず手を休めた。
梅雨が開け、本格的に暑くなってゆく七月。森の中にある神桃学園は、鮮やかな緑に染まっていた。けたたましい蝉の鳴き声が、押し寄せる波のように、耳にへばりつく。
窓の外で垂れ下がった、アンズの赤い実を、ぼんやりと眺めていたミチルは、ふと調理室に目線を戻した。同じグループの女生徒が、サンドイッチ用の野菜を切ろうと、包丁を構えたところだった。切っ先は、堂々と天井を向いている。
「ええっ!」
ミチルはびっくりして叫んだ。
彼女も瞬時に気づいたようで、ぱっと顔を赤らめる。
「まあ、私としたことが。戦闘授業の癖で」
ところで包丁はどう持っていたかしら、と首を傾げる彼女。
「おかしいの」
和やかに笑い合う。
ふと周りを見て、ミチルは硬直した。彼女だけではなく、ほとんどの生徒が物騒な構え方をしていた。
――これは、怖い。
普通の学校では、まずお目にかかれない光景だな。
「あっ、クッキーが焼きあがったみたいね」
「ほんとだ。んー、いい香り」
皆で仲良く、クッキーをお皿の上に並べながら、ミチルは正面の女生徒に話しかけた。
「どうして、急に調理実習なんかあったんだろうね」
「あら、ミチルさん。知りませんの。この調理実習でつくるクッキーは、もうすぐ取り行われる《狂踊祭》の、ダンス相手を誘うためのものなのよ。だから女子しか居ないでしょう」
「ええっ、そうだったの!? せっかく食べるの、楽しみにしてたのになあ」
皆がくすくすと笑った。
「ミチルさんは、誰か誘う相手がいらっしゃって?」
尋ねられて、ミチルはうっと言葉につまった。
《狂踊祭》と云えば、夏休みに入る直前の夜に行われる――いわゆる、舞踏会のようなもの。肆区から参区までつづく《日向ノ道》すべてが舞台となり、色とりどりにライトアップされる。女子は華やかなドレス、男子は麗しいタキシード姿で、手を取り合って踊る一夜は、まさに夢のようだとか。
参加は自由だ。人が一所に集まるので、学園を詮索するいいにはいい機会になるが、ミチルは一曲だけは絶対に参加しようと決めていた。たとえ踊る相手がいなくても、母の気持ちのためにも、絶対に。
――宝石で飾ったような道の上を、お母さんも踊ってみたかったな。ねえ、ミチル約束して。卒業したら、どんなに素敵な舞踏会だったか、言葉の限りに、母さんに教えてくれるって。
「……ミチルさん?」
「あっ、ごめん! ぼんやりしてて……誘う相手は、ううん。まだ、決めてないの」
放課後。ミチルは、袋につめたクッキー片手に、ユキの庭へと向かった。
運悪く、白塔の脇を過ぎた辺りで、女教師とバッタリ鉢合わせしてしまった。
「どこへ行くのかしら」
疑いのこもった冷たい声に、ミチルはどきっとした。今まで遠目で見て、若くて優しそうな先生だなあ、と思っていたのに。
「トイレです」
「……トイレのために、わざわざこんな所まで?」
「トイレ巡りが、趣味なんです」
「…………」
「神社巡りとかが好きな人って、いるじゃないですか」
「…………」
「どうして、トイレはだめなんですか!」
何を必死になっているのか、自分でも訳が分からない。
案の定、呆れたような顔をされた。それでも不信は解けたらしく、女教師は、さっさと通り過ぎて行った。
ミチルが胸を撫で下ろしたところで、背後から声をかけられる。
「あなたが、久遠の孫なのね」
「え……」
振り返った時には、彼女はもう、歩きだしていた。今のはどういう意味だろう、と思ったが、《狂踊祭》のことを考えている内に、そんな言葉も、忘れてしまった。
結局、ユキを誘うことには失敗した。なにせ「弐区からは出ない」の一点張り。クッキーをちらつかせてみても、無駄だった。綾小路も誘ってみたが、彼は既に、相手が決まっていた。《折れた剣》で意気投合していた、笹川という、丸眼鏡の女の子だった。先を越されたようで、悔しかった。
「はあ、」
こうなれば、面識のある男子など一人しかいない。
住居区で、一本の木の周りをひたすら回り続ける神谷の姿を見つけた時、ミチルはとっさに茂みの中に隠れた。
再び確認する。やはり回っている。顎に手を寄せ、ひどく悩ましげな様子で、回っている。
「…………」
――なにをしてるんだろう。
「ミチルちゃん、なにしとるん?」
ミチルはびっくりして横を見た。
「秋月さん」
いつの間にか、噂の彼が、隣で一緒になってしゃがんでいる。
「ちょっと、聞いてくださいよ。神谷先輩が、回ってるんです」
「あー、あれは神谷の癖や。考え事始めると、何かの周りを永遠と回り続けるんやで。まあ、そんな、引いた顔せんと」
それから、秋月はミチルの手元に顔を近づけた。
「ええ香り。僕のために、焼いてくれたんか」
「ちがいます!」
ミチルはさっとクッキーの袋を持ち上げた。
「そんな全力で否定せんでも、ええやろう」
可愛ええなあ、と低く囁く秋月。
「からかわないでください。どうせ、山ほど貰ってるんでしょ、クッキー」
秋月は肩をすくめてみせた。
「よう分かったな。忙しくって幸せや」
ミチルは、ふん、と鼻を鳴らした。
「どうせなら、一人の人と踊った方が、ロマンチックなのに」
すると、秋月はけらけらと笑ってから云った。
「まーあ、ええねん。僕は特別がほしいわけやない。女の子が好きなんや。そう云うミチルちゃんは、神谷を一途に愛しちゃってるわけやな」
ミチルはぎょっとして叫んだ。
「なに云ってるんですか! べ、べつに、神谷先輩なんて、ぜんっぜん、好きじゃありませんから! ……あ」
大声を出したせいで、ばっちり目が合ってしまった。神谷は変な癖を見られたにも関わらず、平然としている。