神桃学園
□陸
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小鳥たちの鳴き声響く、春うららかな真昼の空の下。
鈴丘が新館の中庭に足を踏み込むと、ベンチで一人、小柄な女性が弁当を広げているところだった。うなじで束ねたつややかな髪と、中性的な顔立ちは、彼女を神秘的に見せている。
鈴丘は彼女を見つけるなり、嬉しそうにその巨体ををくねらせ、闘牛のごとく突進した。
「わが愛しの、妹ぉーん!」
女性は迫りくる闘牛を一瞥し、よいしょ、と立ちあがる。今まさに座っていたベンチを軽々と持ちあげ、わずかに首を傾けた。
「兄さん。止まらないと、おとすわよ」
「のぉーっん!」
砂埃を豪快にたてながら、鈴丘はすんでのところで止まった。
「恐ろしい子! あんた、脅すときは声のトーン上げなさいよ。それと、私のことは『姉さん』って呼んでねん。約束よっ」
「……はぁ」
彼女は鈴丘の妹で、内進クラスの数学教師だった。生徒からは名前の方で、夏見、と呼ばれている。
夏見は静かにベンチを下ろすと、弁当の小梅を口に運んだ。
「夏見ぃ……」
鈴丘が寂しそうに擦り寄る。
「やめて、気持ち悪い」
夏美は口をもごもごと動かし、ぺっと種を吐きだした。種は弧を描きながら、鈴丘の眉間へと吸い込まれてゆく。
「いたい!」
鈴丘がしゃがみ込んだ。
「はしたないこと、しちゃ、だ、め。あぁん、私の教育が行き届かなかったせいだわ。天国のお父様お母様ごめんなさい!」
「気持ち、悪い」
夏見はぴきり、と額に青筋を浮かべた。
相手にされなくなった鈴丘は、拗ねて中庭を徘徊していた。梅の花が盛りで美しく、菫の香りも芳しい。校舎からは、生徒たちの元気そうな声が響いている。時々高笑いや破壊音まで聞こえてきて、鈴丘は恐々とした。
外進生クラスとの、この差はなんだっていうの!
夏見が食べ終わったのを見計らい、再び接近する。
「夏見、あなた……大丈夫なの?」
文脈のない兄の問いに、夏見はキョトンとした。
「なにが」
「入学式のことよ。鬼と戦ったでしょ。心の傷になってやいないかしらん」
そんなこと、と夏見は感情のこもらない声で呟く。
「ばかね、兄さん」
「姉さんね」
「私は慣れてるのよ」
でもでも。鈴丘は遠心力をつけてちぎれんばかりに首を振る。
「《閻魔針》を使ったんでしょ。あれ、後味悪いって云うじゃない」
「使ったのは私でなくて、藤沢先生。あの人は、まだふさぎ込んでるみたいだけど」
鈴丘は、そう、と顔を暗くした。あの優しい中年教師を思うと心が痛んだ。
鬼と戦うのは剣が基本。それは士道に基づくものだが、人の心の傷を少なくする為でもある。
命を懸けて戦うことで、鬼は最後の瞬間には笑って逝く。笑顔の意味は分からない。よほど生きていることが辛いのか、鬼の世界がそれほどまでに酷いのか。なんにせよ人は、その笑顔に救われる。鬼という、人に限りなく近い生き物を殺めることは、決して赦されない罪ではないのだと。そう、思い込むことができる。
入学式で《閻魔針》を使われた鬼は、――訳のわからない――という怯えた表情で死んでいったと聞いた。
藤沢先生がふさぎ込むのも当然よね。鈴丘は大きな溜息をおとした。こう云うと変な感じだが、根本的に、人殺しと鬼殺しはちがうのだ。
「なによ、この世の終わりって顔して。鬼に情けなんてかける方がばかなのよ」
夏見の声は冷たかった。
「ばかは、ないんじゃないのぉ」
鈴丘がぼそ、と云ったが、夏見は、ただ静かに氷のような冷笑を浮かべただけだった。
「ところで、相談があるんだけど……」
おずおずと鈴丘が切り出した話し。それは、彼の担当するクラスの生徒の証言で、入学式直後に一緒にいた生徒が消えた、という不可解なものだった。
夏見は、ふぅん、と相槌を打つ。
「毎年聞くわね、その話し。でも何故消えたかは、兄さんだって噂に聞いているでしょう」
「……でもねえ、あれは余りにカルトっぽいと云うか……」
「そうね、でも――鬼が存在してること自体、胡散臭いじゃないの。『そういうこと』があったって、不思議じゃないと思うけど」
夏見の言葉に、鈴丘は頭をかかえた。
「冗談じゃないわよ!」
噂が本当なら、あまりに残酷すぎる。
「どうしようもないわ。学園とは関係ないことなんだから。ましてや、私たちにどうにかできることでもない」
それより、と夏見は目を鋭く細めた。
「憂うべきは、人が消えていることに気づいた、生徒の方よ。なにか、良からぬことを企てなければいいけどね」
「……どういうこと」
夏見は、鈴丘を真っ直ぐ見上げて云った。
「わからない? 不信感は、狂気に変わるということよ」