神桃学園
□伍
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昔、むかしの話。日本には、「神さまが宿る」と云われ、大切にされてきた桃の木《神桃》があったという。その木の周辺では常に田畑が潤い、豊作でない年は一度としてなかった。その巨大な桃の実は万病の薬となり、一口食べればどんな病でも治した。
しかしある時、神桃の木に突如として大きな洞が開いてから、恐ろしい災いが起こるようになった。田畑は枯れ、人々は病に苦しんだ。そして――、
「これも突然のことだ。神桃に開いた洞から、鬼が姿を現し始めた」
神谷が云うと、ミチルはいまだ止まらない涙を拭いながら笑った。
「そんな、漫画みたいです」
「まぁ聞け」
神谷はグレーのハンカチを取り出し、それをミチルに投げて寄越した。ミチルは驚いてハンカチをまじまじと見た。神谷は知らぬふりで、話しを続ける。
「何はともあれ、人と鬼との戦いの歴史は、ここから始まった」
外見では、人と見分けのつかない鬼。それが人とは別の生き物であると確信に至るまでも、随分かかったらしい。何の表情も浮かべず人を殺める鬼を見ても、初めは皆、すべて気の触れた人間がやったことだと思ったのだろう。
しかし、少しずつ人々は気づいていった。人とは明らかに違う存在のこと。そして、鬼がどこから来るのかを。気づいた頃には、鬼は日本各地に棲みついていた。人々は鬼の滅亡を望み、討伐に乗り出した。
やがて、神桃木の樹液が鬼に毒として働くという、なんとも皮肉な事実が分かってからは、徐々に人が優勢となっていったという。
神桃木から離れた鬼たちは少数ずつで固まっていたため、見つけてしまえば、倒すことはたやすかった。
「問題は、鬼の発生地であるここだ。鬼が外へ出られないようにするため、砦を築く必要があった」
――砦。
「とは云っても、そんなものは直ぐに突破されてしまう。そこで、正義感の強い人々が砦の中に住み、鬼と戦うことに一生を捧げるようになった。彼らは《神桃ノ民》と呼ばれた」
――神桃ノ民。
「砦を囲むように次々と石壁が築かれ、《神桃ノ民》は時の経過と共に外の世界から孤立していったという」
――孤立。
「しかし室町幕府の終わり頃――ああ、そうだ……ちょうど京都で応仁の乱なんかがあった頃だな。《神桃ノ民》は一族挙げて砦から抜けることを決意した。まぁ、いつかは、こうなって普通だろうな。残った民もいたそうだが、ごく少数だ。多くの鬼が再び人の世に現れるようになった」
――そうして、悲劇は繰り返されたのか。
ミチルはハンカチを握る手に力をこめた。
「戦国時代、鬼はほとんど野放し状態だった。そればかりか、人が鬼を戦の道具として利用することもあったそうだ。だが、やがては太平の世――江戸時代がおとずれる。平和な世では、鬼はもはや邪魔でしかない。幕府は鬼を滅ぼすため、秘密裏に隊を設けた。それが、初めの白影隊だ。だが鬼を滅ぼすことは不可能だった」
「どうしてですか」
ミチルは咄嗟に尋ねた。
神谷は巨木に近づくと、その幹にそっと掌を押し当てた。
「考えてもみろ。洞の向こうは、未知の鬼の世界だぞ。そのうえ神桃の木には不思議な力が宿っていて、純潔な乙女しか、こうやって近づき触れることが出来ない」
「じゅ、純潔のなにって」
「処女(オトメ)」
「……あ、はい、なるほど」
ミチルは咳ばらいをした。
「つづきをお願いします」
「ああ」
白影隊は結局、《神桃ノ民》と同じ道を辿ることになったらしい。各地に広がった鬼を退治した後は、砦の中に派遣され、一度入れば逃げ出すことは許されなかった。
――そういう人たちが居て、人の世は守られてきたのだ。
ミチルは無性に悲しくなった。
「この学園はいつ出来たんですか」
「このような形を取り始めたのは、明治の初期からだ」
「ってことは……明治維新といっしょに?」
「そういうことになるな」
ミチルは、なんとなく空を見上げた。のんびりと、白い雲が流れていた。
「白影隊……そうだ。白影隊の人たちの代わりに、学園が出来たんですよね」
肯定的な意見を含んで、そう呟く。少なくとも、彼らは解放されたのだ。そう思うと、他人事ながらほっとした。しかし神谷に目をやると、厳しい表情で空を見据えていた。
「……代わり、か」
「……?」
それもつかの間、神谷はミチルに向き直ると、表情を和らげた。
「涙はかわいたようだな」
「あ……」
ミチルは頬に手をやった。たしかに涙は止まっていた。