形代の紫
□紅梅
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冬が過ぎて春が来て、夏が終わり秋が去り、また冬が巡って。
そして、心を突き刺す寒さの染みる二度目の冬も、もうすぐ過ぎようとしていた。
◆◆◆◆◆
開け放たれた窓から吹き込む風が、どこからか梅の香を運んできた。
なごり雪がまだちらほらとに芝生に積っているというのに、春はもうそこまで来ているなんて…。
あれから、一年あまりの時が過ぎた。
荒れ果てた屋敷の片隅で、わたしは静かに過ごしている。
悲しみにも嫉妬にも心を揺さ振られることなく。
……喜びも嬉しさも感じないままに。
―――紫結、どうして泣かない…?
とうさまの残滓がわたしに寄り添いながら囁いた。
「泣くようなことなんてないもの…」
―――だがお前の心はそうじゃないだろう?
「………」
―――あの日からずっと、お前は心で泣き続けている…
「……そんなこと、」
―――ない、なんて言わせないぞ。僕に嘘が通じるものか。……紫結、僕はもうお前を抱きしめてやることは出来ない…
「……とうさまは、こうしてそばに居てくれるだけでいいの」
とうさまはどこか哀しそうにわたしを見た。
この屋敷に色濃く残るとうさまの気配と同調して、残滓はとうさまの形をとるほどにはっきりしたものになっていた。
その声も、記憶も、元のまま。
だけどわたしに触れることはできず、擦り抜けるだけ。
でも、それでも良かった。
そばにいてくれるだけで良かった。
とうさまと二人の静かな生活。
少し形は違うかもしれないけれど、描いた未来はこうして叶っている。
だけどわたしはこの一年で、感情というものをほとんど忘れてしまった。
だけどいいの、もう。
感情に振り回されるのは煩わしいだけ。
悲しみも、切なさも、もういや。
期待して、裏切られて、それなのに優しくされて、希望が捨てられなくなって。
その繰り返しには、もう疲れた。
悲しみを鮮やかに思い出させる夢は嫌いだから眠らない。
…ううん、本当は眠れない。
シーツに潜れば、いやでもあのやさしい腕を、耳に心地いい声を、射ぬかれるようなあの瞳を思い出してしまうから。
わたしの髪をやさしく撫でたあの手がなければ息も出来ないなんて。
今頃、あの酷く優しい指先には、大切なあの人の髪が絡みついているのだろう。
それを考えるだけで胸が詰まるのは、どうして…?
かぐやかな紅梅の香り。
それなのに春告げ鳥の鳴き声はまだ聞こえない。
心ありて 風の匂はす園の梅に まづ鶯のとはずやあるべき
(梅は鶯を待っているのだろうか。決して訪れてはくれないのに)