形代の紫

□幻
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「……とうさまあああああああ!!」

闇色が広がる空に、わたしの絶叫だけが虚しく響く。
声が続くまで、喉が枯れるほどに叫んでも、あの冷たく優しい指が再びわたしの頬を撫でることはない。

どうして…?
どうして幸せはいつもわたしを擦り抜けていくの?
まるで悪魔が嘲笑いながらわたしの目の前で奪っていくかのよう。
ほんの少しだけ甘い夢を見せて、それが叶うかもしれないと希望を抱かせた瞬間に。


「……紫結さん」


優姫さんが微かに呟いた。
長い髪が風になびく。
なびく。
わたしと同じ香りが舞って、疎ましくまとわりつく。
絡みつく。

枢はいつも、純血種に戻った優姫さんを思い描きながらわたしの髪を撫でていたのだろうか。
長い髪の彼女が、自分の隣に戻る日を待ち焦がれながら。
わたしの髪を彼女と同じ匂いに染め、想いと願いを込めて梳き…。

カラン、と足元で音がした。
やるせなく目を下ろすと、そこには誰かの武器だったのだろう短剣が転がっていた。
おもむろに手に取るとずしりとした重さで存在を主張した。

この十年で長く長く伸びた髪が手に足に纏わりつく。
絡みつく。
重い鎖のようなこの髪。
枢が撫で、掻き抱き、数えきれない口付けを落としたこの髪。
想いの鎖のようなこの髪。


「……っ!」


―――ザクリ

その髪を断ち切った。

毛先が肩で揺れる。
頭が驚くほど軽い。
それとは反対に重いままの心。
想いはそのままの、心。

そのとき、黒いもやのようなものが突然わたしを囲みこんだ。


「…危ないっ!」


優姫さんの声が遠くに響く。
だけどこれはわたしに害を成すものではないと直感した。
だってこの気配は………とうさまのもの。


―――紫結……


闇はやさしくわたしの名前を呼ぶ。
とうさまの声ではっきりと。


「……とうさま」


わかっていた。
これは本当のとうさまじゃない。
とうさまの記憶や想いの欠片。
灰となって消えてなお、残ってくれたとうさまの欠片。


―――紫結、紫結、紫結


闇は頬をやさしく撫でるようにわたしに寄り添う。
ああ…。
欠片でもなんでも
これは確かにとうさまだ。


「…とうさま、行きましょう」


あたたかい闇がわたしを包む。
行きましょう、どこか遠く、静かな場所へ…。


「紫結…っ!!」


その時、声がした。
忘れられない声がした。
震えるほどに、息が止まるほどに、愛しくて切ない声がした。
断ち切ったはずの、声がした。

闇の隙間から、驚いたような打ちのめされたような枢の顔が見えた。


「………」


名前は、呼ばない。
凝り固まった感情が塞き止める。

もういや。
悲しむのはもういや。
貴方を想うだけで苦しいの。
これ以上心を揺さ振らないで。
揺さ振らないで。

瞼を閉じた。
広がるのはやさしい暗闇。


「……紫結っ!!」


枢の悲痛な叫びを聞きながら、わたしは学園を去った。
向かうは深い森の奥。
とうさまの気配が色濃く残るわたしが生まれた蔦の屋敷へ。

大空を かよふ幻夢にだに 見え来ぬ魂の 行方たずねよ
(夢でもいいの。幻でもいいの。とうさまの僅かな名残を訪ねて)

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