形代の紫
□胡蝶
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「かなめ…?」
白い絹に紫と銀糸で蝶の刺繍を施したドレスに身を包んだ紫結は、躊躇いがちに不安げな瞳で僕を見上げた。
「…変じゃない?」
「僕が見立てたのに?」
綺麗だよと言って頬に口づけを落とすと、紫結は恥ずかしそうに俯いた。
◆◆◆◆◆
街の片隅の廃ビルの地下別邸で行われる、藍堂家の定例夜会。
貴族たちの視線を浴びるのが煩わしくて今まで何度か断り続けていたけれど、
藍堂殿の矢のような催促に負けて今回は紫結と一緒に出席することにした。
紫結は久しぶりの夜会にはしゃいでいるのか、いつもより笑顔を多く見せた。
目的地に着き車から降りると、よく知った気配がした。
ビルの入り口に垣間見える黒い制服。
気を失った優姫が倒れていた。
「困った子だ…」
今夜、ここは数多くの吸血鬼が寄り集う。
優姫の正体を知らない彼らにとっては絶好の贄だろう。
「かなめ…」
控室に連れて行こうと優姫を抱えあげると、紫結は心ばかりに僕の裾を引いた。
「紫結、一条たちと先に行っておいで」
宥めるようにそう言えば、紫結はその紫の瞳に諦めの色を映して手を引いた。
◆◆◆◆◆
優姫を部屋に残して夜会場に行けば、恭しく頭を垂れる貴族たち。
群がる彼らを適当にかわしながら紫結のそばに行けば、紫結は一条の後ろにさっと隠れた。
「…紫結?」
思わず眉間に皺が寄った。
君は僕のもの。少しでも僕を拒むなんて許さない。
「枢、紫結ちゃんはやきもち妬いてるんだよ」
「たくま…っ!」
「やきもち?」
「久しぶりの夜会なのに枢がそばにいないから。紫結ちゃんは枢にエスコートしてほしかったんだよね」
一条が紫結の顔を覗き込むと、紫結は長い髪の間に熟れた桃のように染まった顔を隠した。
そんな紫結につい顔が弛む。
こんなことで直る機嫌に我ながら単純だと心の奥で苦笑した。
「…紫結?」
甘い声を舌に乗せる。
匂やかな蜜に誘われた蝶のように、紫結はおずおずと顔を出した。
「だって…」
「うん」
「ドレスだって、選んでくれたのに…」
「うん」
「なかなか、戻らないから…」
「うん」
「もう…、来ないのかと思って…」
小さな小さな声で呟く紫結に手を差し出せば、紫結はその白い手袋に包まれた手をそっと重ねた。
小さな手を引き、細い身体を僕の元に引き寄せる。
ドレスの裾端の蝶がシャンデリアに照らされる。
まるで鱗粉を振り撒くように煌きながら揺れた。
「…そう。それなら待たせてしまった埋め合わせをしないとね」
「……っ」
周りに聞こえないように耳元で囁いて背筋をそっとなぞれば、紫結はビクンと身体を震わせた。
その鼓動が大きく鳴ったのが鮮明に聞こえる。
紫結の潤んだ紫の瞳が僕を見上げた。
その色の蠱惑的な深さに密かに息を呑んだ。
誘い込まれたのは僕の方かもしれない。
「さぁ、行こうか…」
紫結を連れて夜会場を出ようとすると、入口の方からどよめきが沸いた。
そちらを見れば、波打つ金髪のシルエット。
「まあ、紫結ちゃん。それに……枢さん」
「更……、久しぶり」
「更さん」
紫結に向けた笑顔と僕に向けた笑顔には明らかな違いがあった。
更のことだからあえて僕にわかるようにしているのだろう。
僕も短い言葉に気持ちを孕ませる。
はっきり言って頻繁に会いたい相手ではない。
紫結は更の姿を見ると綻ぶように微笑んだ。
数回しか会ったことがないにも関わらず、紫結は何故か更に懐いていた。
僕は昔からそれが気に喰わない。
「今からどちらへ?まさかもうお帰りになるなんて言わないでしょう?」
「少し下がるだけだよ。久しぶりの人ごみに紫結が酔ってしまったようでね…」
「あら、それならわたくしが介抱してさしあげるわ」
「更の方こそたったいま来たばかりだろう?気を遣うことはないよ」
「わたくしも紫結ちゃんとお話したいのですもの。…それに、枢さんは他に行かなければいけないところがあるんじゃなくて?」
最後の一言を僕にしか聞こえないように囁くと、更はちらりと会場の吹き抜け部分に視線をやった。
上階の階段の柱の影からチラリと見える黒い制服の裾。
あれほど部屋から出ないようにと言ったのに…。
「…かなめ?」
紫結が不安げに僕を見上げた。
だけど、優姫を見過ごすわけにはいかない。
もし他の吸血鬼に見つけられたら大変なことになる。
あの子は自分の身すら守れない雛鳥同然。
「……それなら、更。紫結のことを頼んでもいいかな」
「ええ、もちろん」
「紫結、久しぶりだろうし、ゆっくり話してくるといいよ」
「……」
紫結は何も言わずに僕の手を離した。
後ろ髪を引かれながら僕は夜会場を後にした。
胡蝶にも さそわれなまし心ありて 八重山吹の隔てざりせば
(胡蝶を誘い誘われて、心までもが魅せられた。金の髪が隔てなければ)