形代の紫

□花散里
1ページ/1ページ


その香りのようにやさしくて
◆◆◆◆◆

月の寮の中庭。
まだ慣れないその庭を、どこに向かっているかもわからずに歩いた。
月明かりの下で橘の白い花びらがひらひらと散っていた。
しっとりとした夜の空気に柑橘系の香りが広がる。

枢は理事長のところへ行っていた。
なんて、ただの口実。
優姫さんに会いに行ったのだ。


「はぁ……」

思わず溜息が漏れた。
その時、背後で声がした。

「……だれ」

「きゃ…!」

「……そんなに驚かなくても…」

びっくりして躓きそうになったわたしを、その男の子の細い腕が支えてくれた。
茶色のやわらかい髪に、ブルーグレーの色の瞳。
身体を流れる血が、ドクンと波打った。
指先から感じるなつかしさ。
初めて会ったのに、血は知っている。
彼のその白い皮膚の下に流れるわたしと同じ血を確かに感じた。


―――にいさま。


「ねえ…」

「……」

「名前は…?」

「……紫結」

「オレは千里」

「……せん…り…、にいさま…」

恐る恐るそう呼べば、にいさまは微かに微笑んだ。
それは、とても、とてもやさしくて。
久しぶりに、心から笑えた。

◆◆◆◆◆

「にいさま」

「……紫結?」

その日から、毎日のように中庭を訪ねた。
そこはどうやらにいさまのお気に入りの場所のようで、にいさまはいつも白いベンチの上でうたた寝をしていた。
どうして?と尋ねると、あたたかくていい匂いがするから、と眠たそうな声で言った。

「もう授業終わったの?」

「ついさっき。にいさまはまたここでサボっていたのね」

「だって朝から仕事だし」

「お部屋で寝ればいいのに」

「そしたら起きれない」

「にいさまらしい」

そんな、他愛ない会話。
でもそれが心地よくて、あたたかくて。
でもその時間は長くはない。
月が傾くのがその合図。
これから太陽が昇るまで、わたしは夜に囚われる。
黒い翼に紅い瞳の、猛禽類のような激しさと、悪魔のような甘さを併せ持つ、残酷なあの腕に。


「…わたし、もう行かなきゃ」

「もう少しいれば?」

「でも、かなめに怒られちゃう」

「……」

にいさまは、何か言いたそうに口を開いたけれど、何も言わずに閉じた。
にいさまは気付いているのかもしれない。
わたしが枢に抱かれているって。
気付いているのかも、しれない。

「にいさま…?」

「…なに?」

「明日もまた、来ていい?」

「…毎日来てるじゃん」

「……ありがとう」

「なんで?」

何も言わないにいさまの優しさが、心に染みた。
絶望と虚しさの箱庭の中、ここは安らぎの花散る里。

橘の 香を懐かしみほとどぎす 花散る里をたずねてぞ訪ふ
(たった一つの血の繋がり。懐かしいあなたの元を毎夜私は訪れる)

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ