形代の紫
□花散里
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その香りのようにやさしくて
◆◆◆◆◆
月の寮の中庭。
まだ慣れないその庭を、どこに向かっているかもわからずに歩いた。
月明かりの下で橘の白い花びらがひらひらと散っていた。
しっとりとした夜の空気に柑橘系の香りが広がる。
枢は理事長のところへ行っていた。
なんて、ただの口実。
優姫さんに会いに行ったのだ。
「はぁ……」
思わず溜息が漏れた。
その時、背後で声がした。
「……だれ」
「きゃ…!」
「……そんなに驚かなくても…」
びっくりして躓きそうになったわたしを、その男の子の細い腕が支えてくれた。
茶色のやわらかい髪に、ブルーグレーの色の瞳。
身体を流れる血が、ドクンと波打った。
指先から感じるなつかしさ。
初めて会ったのに、血は知っている。
彼のその白い皮膚の下に流れるわたしと同じ血を確かに感じた。
―――にいさま。
「ねえ…」
「……」
「名前は…?」
「……紫結」
「オレは千里」
「……せん…り…、にいさま…」
恐る恐るそう呼べば、にいさまは微かに微笑んだ。
それは、とても、とてもやさしくて。
久しぶりに、心から笑えた。
◆◆◆◆◆
「にいさま」
「……紫結?」
その日から、毎日のように中庭を訪ねた。
そこはどうやらにいさまのお気に入りの場所のようで、にいさまはいつも白いベンチの上でうたた寝をしていた。
どうして?と尋ねると、あたたかくていい匂いがするから、と眠たそうな声で言った。
「もう授業終わったの?」
「ついさっき。にいさまはまたここでサボっていたのね」
「だって朝から仕事だし」
「お部屋で寝ればいいのに」
「そしたら起きれない」
「にいさまらしい」
そんな、他愛ない会話。
でもそれが心地よくて、あたたかくて。
でもその時間は長くはない。
月が傾くのがその合図。
これから太陽が昇るまで、わたしは夜に囚われる。
黒い翼に紅い瞳の、猛禽類のような激しさと、悪魔のような甘さを併せ持つ、残酷なあの腕に。
「…わたし、もう行かなきゃ」
「もう少しいれば?」
「でも、かなめに怒られちゃう」
「……」
にいさまは、何か言いたそうに口を開いたけれど、何も言わずに閉じた。
にいさまは気付いているのかもしれない。
わたしが枢に抱かれているって。
気付いているのかも、しれない。
「にいさま…?」
「…なに?」
「明日もまた、来ていい?」
「…毎日来てるじゃん」
「……ありがとう」
「なんで?」
何も言わないにいさまの優しさが、心に染みた。
絶望と虚しさの箱庭の中、ここは安らぎの花散る里。
橘の 香を懐かしみほとどぎす 花散る里をたずねてぞ訪ふ
(たった一つの血の繋がり。懐かしいあなたの元を毎夜私は訪れる)