形代の紫
□夕顔
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ただの、見間違い
◆◆◆◆◆
「紫結…、紫結…」
やわらかくわたしを呼ぶその声に重い瞼を持ちあげる。
カーテンの隙間から夕暮の光が漏れて、瞳を突き刺した。
「……まぶし…」
「もう時間だよ。おはよう」
「かなめ…」
素肌のままのわたしとは対照的に、枢はすっかりと白い制服を身に着けていた。
上体を起こすのさえ億劫なほどにひどく気だるい身体。
そんなわたしを枢は軽々と持ち上げて、バスルームへと連れて行った。
長く伸びた髪が腕に、胸に、腰に纏わりつく。
「…降ろして」
「立てるの?」
くすっと笑うように言った枢にただコクンと頷く。
扉が閉まる音を背中越しに聞いて、シャワーをひねった。
獣じみた夜の激しさとは一転して、目覚めた後の枢はとても優しい。
閨の中でわたしの心を凍らせるあの残酷な言葉のことなどまるで憶えていないかのように。
実際、憶えていないのかもしれない。
それほどまでに無意識に、夢中になって、枢は求めているのだ、あの女(ひと)を。
深く吐き出した溜息は、頭上から降りそぞぐ水音に掻き消された。
「紫結、おいで」
「…自分で出来る」
「僕の楽しみを奪うのかい?」
バスルームから上がると、枢はドレッサーの前でドライヤーを片手に待っていた。
枢はやたらとわたしの髪に触りたがる。
スツールに座ると、枢は慣れた手つきで私の髪を乾かし始めた。
ドライヤーの温風に、シャンプーの香りが舞った。
「伸びたね…」
「かなめが切らせてくれないから」
「こんな綺麗な髪なのに切るのはもったいないよ」
太腿の付け根まで伸びた髪。
それはまるで、自由を奪う枷のようで。
わたしを枢に繋ぎ止める鎖のようで…。
「…いい香りだね」
枢はわたしの髪を一房取ると、口付けるようにその香りをかいだ。
◆◆◆◆◆
重厚な門が錆び付いた音を立てて開く。
空は黄昏色。
茜と群青に挟まれた紫。
隣の枢がふと言った。
「紫結の瞳みたいな空だね」
「こんなに綺麗じゃないわ」
「そうかな?僕は好きだよ」
胸が痛むほどに鼓動が鳴った。
どうしてさらりとそんなことを言うの?
その一言に、わたしがどれだけ揺さぶられるかも知らないで。
顔がみるみる染まっていくのがわかる。
燃え上がるような西の空のせいだと思ってくれればいい。
そんなことを願いながら枢を見ると、見たこともないような優しい表情で微笑んでいた。
溢れるような愛が込められた眼差し。
その視線の先には―――
「そこ!押したら危ないですよ!下がってください!」
―――優姫さん。
鼓動の高鳴りは消え、胸の痛みだけが増した。
わかってる…、わかってた、のに…。
「優姫、今日もご苦労様」
「か、枢センパイっ!あの…、今日も頑張ってくださいっ」
「くす…、ありがとう」
横から聞こえる二人の会話に耳を塞ぎたくなった。
そんな時ふわりと風が吹いて、良く知った香りが鼻腔を掠めた。
優姫さんの髪から私の髪と同じ香りがした。
ああ、そういうこと。
そういうこと、だったのね…。
髪の香りまであの女(ひと)と同じにさせるなんて。
涙で視界が滲んだ。
枢が想うのはあの人だけだって、わかってるのに。
淡い希望を抱いても無駄だって、わかってたのに。
わたしは何度、打ちのめされれば気が済むのだろう。
光ありと 見し夕顔の上露は たそかれどきのそら目なりけり
(僅かな希望が見えた気がした貴方の顔は、黄昏時の見間違いでした)