重たい引き戸を開けても、目的の人物は居なかった。開けっ放しにされた窓から吹き抜ける風が、薄手のカーテンを揺らすだけだ。仗助はいつの間にか空席になっているベッドをぼーっと眺めた。ここに居た幼い少女が亡くなったと聞いたのは、先週のことだっただろうか。 「…あれっ?仗助?来てたんだ!」 「ん?おぉ〜今来た。どこ行ってたんだ?」 「下の階に入院してるおじいちゃんとね、シャボン玉してきたの!」 「シャボン玉ァ?」 「ジョセフおじいちゃんが持ってきてくれたのよ」 とてもこの病院で長い事闘病生活を送ってるとは思えないほど快活な笑顔を見せる彼女は、軽い足取りで自分のベッドに腰掛けた。仗助も続いてベッドの隣の椅子に腰を下ろす。 「しかしよォ、なんでまたシャボン玉?」 「夢に見たのよ。シャボン玉をする夢を見たって言ったら、ジョセフおじいちゃんが持ってきてくれたの。」 あのジジイがねェ〜と彼女がサイドテーブルに置いた袋に視線を投げると、シャボン玉をするにしては見慣れない棒が入っている。煙管の様な形のそれを手に取ると、ああ!と彼女は笑った。 「それ、おじいちゃんの親友が使ってたんだって。今まで大事に取っておいたなんてすごいよね」 「親友?聞いたことねェなァ」 「わたしが夢で、かっこいいお兄さんとシャボン玉したって話をしたら貸してくれたの。」 「へえ」 「でもね、そのお兄さんの話をしたら、おじいちゃん、泣いちゃったのよ」 「泣いたァ??」 ジョセフの涙を思い出したのか、少し悲しそうな顔をした彼女は、俯きながら口を開く。 「どこか、わたしの知らない外国みたいなところでね、わたしとお兄さんしか居なくて」 「…」 「お兄さん、リンゴを剥く音が苦手なんですって。面白いでしょ。」 「なんだそりゃあ」 「そうやってね、どうでも良い話をしながらふたりでシャボン玉をするの。お兄さんのシャボン玉はキラキラ光って、すごく丈夫なのよ」 ふうん、と生返事を返す仗助の脇腹を、聞いてるの?とつつく彼女の頭を撫でる。お前の話は一字一句逃さず聞いてるに決まってる。そんな目線にも気付かず、頭を撫でる手のひらに嬉しそうに目を細める彼女。 「でもね、お兄さん、いつも途中でどこかに行ってしまうの。わたしが追いかけようとすると、君はこっちに来ちゃあいけないよ、って、1人で居なくなってしまうのよ」 「……そいつ、誰なんだろうなあ」 「さあ?でも、ジョセフおじいちゃんは、わたしはきっと長生きするって言ってくれたのよ」 至極嬉しそうに笑われては、息が詰まる。仗助は、ベッドの上で無意味に開いたり閉じたりを繰り返す彼女の手に、自分のを重ねた。ほぼ無意識だった。 「もう、どうして仗助がそんな顔するの?」 「え?」 「そんな悲しい顔しないで?」 もう、何度も考えた。どうして自分の得た力は、彼女の病気を治せないのか。こんなにも、治したいと願ってる彼女の身体を、治す事ができない。 「わたし、この病気が選んだのがわたしでよかったと思ってるよ。」 「…っ、」 「でも、仗助がそんな顔するのは辛いから、笑って欲しい。」 頬に添えられた指先は少し冷たくて、噛み締めた唇に力が篭った。どうして、彼女は、こんなにも。この小さな身体で、全てを受け止められるのだろうか。深く吸った酸素を、肺に溜めて、一気に吐き出す。無理やり作った笑顔を彼女に向ければ、満足げに笑い返される。治せないなら、意地でも治るまで、側にいよう。その笑顔のためなら、なんだってできる気がするよ。 水槽の金魚は夢を見るか --------------- シャボン玉のお兄さん(イケメン) |