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□suimei
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「雛森……頼んだ」

手を引いてくれた優しげな女性は、その儚い面に憂いを滲ませて頷くと、ふと気がついたように口許に笑みを刷いた。
それは、託す者に不安を与えないようにとの配慮ではあるのだろうが、その効果は果たしあったのだろうか。
そのことは雛森と呼ばれた女性自身ですら疑問に感じたことのようで、まるで補強するかのように大丈夫よ、と言い添えた。

「大丈夫、ちゃんと面倒を見るから……。それに、シロちゃんも乱菊さんも、会おうと思えばすぐにこれる距離だもの。そんなに心配そうな顔しないで」

「お前に、頼めた義理じゃねえのは分かってんだ、でも、こいつを安心して預けられんのはお前しかいないから……」

「うん、頼ってくれてありがとう。……乱菊さんも」

そう言って雛森が見つめた先には、母が瞳を赤くして俯いていた。
最後まで、どうにか自分を傍に置く方法はないのかと父に縋っていた母。
しかし、この場に至ってしまえば自分の無力さを恥じるかのように子へと手を伸ばすことも出来ずにいる。
握ったままの手を解き、雛森がそっとその小さな背中を押した。
戸惑うように見上げれば、悲しげな、慈しむような瞳が自分を見下ろしている。

「お母さんに、さよなら、言わないと」

さよなら、と。
その言葉に父が俯く。
それを見て、ああ、本当に自分はここを出て行くのだな、と実感した。
掟と、仕来りと。
ここ数年はその言葉が常に周囲を旋回していた。
それももう終わり。
周囲の異分子を見るような目も、これからは感じずにすむ。
それが、さよならの意味だ。

「……お母さん」

「千歳……」

一歩母へと踏み出せば、涙に潤んだ蒼の瞳が見返してくる。
まるで、その姿をしっかと目に焼き付けるように。
その瞳の熱に、情愛に、喘いで唇を噛み締める。
憎まれているのではない。
不要な存在と思われているわけでもない。
だからこそ、その情に問わずにはいられなくて、抱えてきた疑問が口をついて出た。

「どうして……離れ離れにならなきゃいけないの?」

「千歳……」

「どうして、お母さんもお父さんも、そんなにつらそうな顔をするのに、傍にいさせてくれないの?どうして、秋明だけ一緒にいられるの?」

父母を責めたかったわけではない。
彼らには彼らの葛藤があったことを、千歳は知っていた。
行き場のない悲しみのぶつけどころが分からずに、父を詰り、そして泣いて縋っていた夜更けの母の姿。
そして、その母の肩を抱いて、じっと痛みを堪えるようにしていた父の姿。
子供達には見せぬようにしていたその姿も、千歳はしっかりと目に焼き付けている。
隣で健やかな寝息を立てて夢の中にいた双子の兄を起こさぬように、そっと襖から覗いていたから。
彼らを責めるのは非道なことと知りながら、それでも言葉尻が尖ったのは、幼い胸には飲み込みきれない痛みがあったからかもしれない。
千歳の言葉を受け止めきれずに、ひゅっと息を呑んだ母を支えるように、父が千歳の傍らに膝をついた。

「千歳、分かってほしい。このまま、お前がここにいることは許されないことなんだ。それに……このままじゃお前だってつらくなる」

つらくなるとはどういうことなのだろうか。
住み慣れた家を離れ、家族とも離れ、これから一人で生きていく。
それ以上につらいことなど、千歳には想像することも出来ない。
もし、ここにいられないというのなら、家族みんなでここを出て行けばいいではないか。
自分ひとりを切り捨てずに、どうして一緒にいると言う選択をしてくれなかったのか。
それを問おうとして、千歳は口を開きかけたが、ぽんと肩に置かれた手の温もりに顔を上げれば、雛森がそれを見越したように首を振る。

「シロちゃん、乱菊さん……この子が落ち着いたら連絡をするから。……今、全部を分かってもらおうとするのは、たぶん、難しいよ。千歳ちゃんも、さよならだけ、ちゃんとしとこう?」

労わる瞳の中に、共感と哀れみを感じ取って、千歳は俯いた。
どれほど言葉を尽くしても、ここを出て行くことに変わりがないのは分かりきっている。
なにかを身から削ぎ取るような気分で、千歳はその言葉を口にした。

「お父さん、お母さん……さよなら」

「雛森の言うこと、ちゃんと聞くんだぞ」

「……会いたくなったら、すぐに言うのよ。お母さんも、お父さんも、千歳が呼んだら何があっても駆けつけるから」

愛してるから、と抱き寄せてくれた母の温もりと、頭に置かれた父の手の重みに、鼻の奥につんと痛みが走った。
涙を堪える必要はないと知ってはいるが、今だ胸に蟠る憤りがそれを阻む。
痛いほどに唇を噛み締めて、千歳は身を捩るようにして半ば無理矢理母の腕から逃れた。

「千歳……」

「さよなら」

雛森の傍らへと歩み寄りながら、千歳は母の声を遮るように別れを告げた。
それが母を、そして父を傷つけたとは分かっていても、一度飛び出した言葉はもう舌の上には戻ってこない。
そのまま、雛森の腕を引くように足を速めて。
とうとう、千歳の足は門を潜った。
整備された中とは違い、道もなければ視線の届く範囲に建物もない。
これからは、ここが自分の暮らす世界になる。
外、と。
千歳や兄は流魂街と呼ばれるその世界をそう呼んできた。
よもや、そこで暮らすことになるとは想像もせずに。
足早にしばらく歩いて、千歳は僅かに首を捻って後ろを振り向いた。
聳え立つ白亜の塀。
身に纏うは黒き衣、身に受けるは気高き位階。
世に生きる人々の生死を厳然と別つように、白と黒の二色に彩られたその世界。
もう、自分には二度と足を踏み入れることのない世界。
門に佇む小さな豆粒ほどの二つの人影と決別するように、千歳は目を伏せ、そして歩き出した。
荒涼と寂寥とを友として。


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