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□落月花影【L】
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その日は常になく、十番隊の執務室には筆を走らせる音だけが流れる。
サボり魔の副官が不在と言うわけではない。
松本も珍しく執務卓に座って書類と格闘している。
「松本、そっち終わったか」
「あとちょい……あ、いえ、これで終わりです」
さらりと書類の最後に署名をして筆を置く。
凝ったように感じる肩を回せば、ぱきりと軽い音が鳴った。
「久しぶりに仕事をすると気分がいいですねぇ」
「……多忙なはずなんだけどな。どうしてそこで久しぶりなんて台詞が出るんだか」
日頃の職務放棄振りを覗かせる松本に日番谷が眉を寄せるが、その声は普段と違い尖りは少ない。
上司のその様子にふと苦笑して、松本は広がった書類を掻き集めた。
「今日の分は取りあえずこれで最後です。こっちは二番隊の裁可も必要なので後からあたしが砕蜂隊長に渡しておきますね」
「ああ、頼む」
時計を見上げれば就業時間まであと三十分ほど。
真面目にしすぎてどうやら時間配分を間違ったらしいと苦笑しながら、そういえば昼食の後は休憩もとっていなかったことを思い出す。
規定に拠って就業時間までは任を離れることは許されない。
それを平素は恬然として無視しているが、今日はそんな気分にはなれなかった。
「お茶でも如何ですか?」
「ああ。お前も……」
「もちろん。仕事がちゃんと終わるまではここにいますよぅ。あと少しだし、今更サボりに行ったりしませんってば」
日番谷の口許がぐっと引き結ばれる。
休んでいったらどうだ、と労わってくれる日番谷は優しい。
しかしその気遣いを敢えて曲解して、松本はそれを拒んだ。
今はそんな温もりは欲しくない。
拒まれたことに不快を感じて黙り込む日番谷に、緩く頭を振ると松本は立ち上がった。
「すぐに用意しますから……あら?」
近付いてくる霊圧に、松本は顔を扉へと向ける。
日番谷も気がついたのか寄せていた眉間の皺を解いて。
「ったく、まだ仕事中だろうに……」
苦笑しながら日番谷が呟くのと、扉が遠慮がちに叩かれるのは同時だった。
応えを返しながら松本がその扉を開けば、そこには頬を染めた雛森の姿があって。
扉を開けた松本を見上げるとふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「こんにちは、乱菊さん。あのぅ……」
「隊長なら今仕事が終わったところよ。ナイスタイミング」
良かった、と笑いながら執務室を覗いた雛森を脇に避けながら通す。
日番谷は、と見れば照れ隠しなのかけじめがどうのと雛森に小言を言っている。
しかし、顔は可愛らしい恋人の登場に綻んでいて。
松本はそんな二人の微笑ましい遣り取りから、そっと目を逸らした。
「松本?」
席に戻って書類を整理し始めた松本に、日番谷が訝しげな視線を向ける。
茶を飲んでいくのではないのか、との日番谷に松本は揃えた書類の角を見ながら笑って頭を振った。
「お邪魔でしょうし、少し早いですけど出ます。砕蜂隊長に書類は届けておくので……」
「また、行かれるんですか?」
ごゆっくり、と続けようとした松本に雛森が非難がましい声を上げる。
その声に顔を上げないまま、松本は小さく笑った。
嫌悪の感情を露にする雛森の言いたいことはよく分かる。
「よせ、雛森」
「だって、シロちゃん……」
眉を寄せて制した日番谷に雛森が声を震わせて、俯く。
「あの人のところだなんて……どうしてまだ……」
その雛森の肩を抱いて、日番谷がちらりと松本を見上げた。
もういいから行け、と顎先で促され、それに一礼してから執務室を出る。
「あんな裏切り者の……」
扉が閉まる間際、聞こえてきた雛森の声に松本の視線は地に下がる。
そうして閉ざした扉に小さく息をつくと、雛森の責めるような声と、日番谷の気遣うような視線を振り切るかのように松本は死覇装の裾を翻した。
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