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□Speak low if you speak love.【S】
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「ああ……乱菊か。どうだ、終わったか」
突然の声に驚いたように顔を上げた日番谷はそこに乱菊が立っているのを見て、悪戯が見つかった子供のように笑ってみせた。
つられて乱菊も笑いながら首を振って温室に足を踏み入れる。
「まだまだ終わりそうにありませんわ。二人とも熱中してますもの」
「まあ……荻堂には世話になったしな。諦めて付き合ってやってくれ」
「早々に逃げ出した方の台詞とも思えませんけど」
乱菊がちらりと睨めば、日番谷は苦笑しつつ身を起こした。
読んでいた本を傍らに置いて、乱菊を手招く。
日番谷の横に腰かけた乱菊は、置かれた本を手にとってぱらぱらと捲った。
「荻堂も、あれがなければなぁ。あいつに服を頼むとどうも疲れる」
良いと思ったら褒め称えなければ気がすまない荻堂に心底辟易したような日番谷の声音がおかしくて、乱菊は声を立てて笑った。
それを見て、日番谷は眩しそうに目を細める。
「?」
乱菊が首を傾げてみれば、照れたように苦笑して日番谷が口元を覆った。
「いや……よく笑うようになったと思ってな」
日番谷の言葉に、乱菊は薄く微笑んだ。
日番谷に憎まれ、売られた自分などなんの意味も持たない存在なのだと悲嘆にくれていたあの頃、乱菊の胸中には常にぽっかりと穴が開いているような虚無感があって。
笑みを浮かべる気力など乱菊は持ち合わせることが出来ずにいた。
それが今となっては悲嘆にくれるような暇さえない。
伊勢の心遣いや、ふらりとやってきては茶を飲んでいく軍人とその腹違いの兄である庭師のたわいない口喧嘩、そして日番谷が与えてくれる温かな愛情に満たされて、幸せとはこのことかと実感する毎日を過ごしている。
面映さに乱菊は手元の本に視線を落とした。
日番谷が読んでいたそれは英文の洋書で乱菊には全く読めないけれど、その頁を見るともなしに繰る。
「読めるのか?」
その手元を覗き込んで問うてきた日番谷に、乱菊は溜息と共に首を振る。
「英語だというくらいしか分かりません」
「英語と分かるだけでも大したものだろう。俺は最初に洋書を見たとき、何かの文様が描かれているんだと思ったぞ」
くつくつと笑う日番谷に、洋書を見て眉を潜める少年の姿を想像して乱菊は口元を緩める。
しかしすぐに、日番谷が異国にまで留学して勉学に励んだのが、自分の稚気に満ちた優越感に深く傷ついた故だったと思い出して、ふと心が重くなる。
それまで底辺の暮らしをしていた少年が、異国へ留学するほどまでの学を身につけるにはどれほどの努力が要ったことだろう。
安穏として暮らし、漠然と異国へ留学するのだと夢見ていた自分の甘さに、乱菊は溜息をついた。
と、不意に身体がふわりと浮かんで、気がつけば日番谷の腕の中にすっぽりと包み込まれていた。
「冬獅郎さん?」
「また、どうせ埒も無いことを考えていたんだろう?」
瞳を覗き込まれて図星を刺されれば、乱菊はそっと目を伏せる。
その額にかかる金糸のような髪の毛を梳きながら、日番谷は柔らかに笑ってみせた。
「……Hatred which is entirely conquered by love passes into love」
歌うような日番谷の言葉に乱菊はぱちりと目を瞬かせる。
「今のは……なんて言う意味ですか?」
「さあ、いつかお前が英語が分かるようになったら教えてやる」
からかうような日番谷に、乱菊が頬を心持ち膨らませれば、その柔らかさを楽しむように指が優しく触れてくる。
「どれだけ先になると思ってるんですか」
「お前のやる気次第だろ。俺が教えてやる。まずは……」
そうして耳元で囁かれた言葉に、乱菊は頬を赤く染めた。
「そ、れくらいなら、知ってますっ」
「へえ、じゃあ、言ってみろよ」
いまやからかうことを楽しんでいる日番谷に、乱菊は恨みがましい目を向けるが、すまし顔の日番谷は痛くも痒くもないようで、ほら、と唇を突いて見せた。
「……あ、いらぶゆぅ……」
どうにも気恥ずかしくて小さな声になる乱菊に、日番谷はくい、と片眉を上げる。
そうして、教師のように溜息をついて首を振って見せた。
「Lの発音がなってない。舌を上顎に軽くあてて……」
と、乱菊の顎を持ち上げ、その目の前で実際にしてみせた日番谷の赤い舌が妙に艶めいて見えて、乱菊は俯いた。
頬が、どうしようもなく火照っていくのが分かる。
なんでもないことなのに、と思っても高まる鼓動は押さえようもなくて。
身じろぎして、身体を離そうとした乱菊を日番谷の腕が抱きしめた。
「どうした?」
その問いかけが笑いを含んでいるのに、乱菊は唇を噛んだ。
日番谷には全て分かっているに違いない。
物欲しげに、はしたなくも日番谷を求める自分の欲深さを。
「意地悪だわ……」
悔しげに乱菊が言えば、日番谷が声を立てて笑う。
「なにせお前に言われたことを十何年も根に持ってるくらいだ。多少の意地の悪さは当然と目を瞑ってもらおうか」
そう言って乱菊の鼻先に己のそれを摺り寄せる。
くすぐったさに顔を引けば、唇に柔らかな感触が触れた。
一度触れ合ってしまえば、情欲を抑えることもできずに何度も唇を重ねる。
次第に深まる口付けに酔いしれながら、乱菊は日番谷の背中に手を回した。
背中を撫でる、日番谷の掌の温もり。
ゆっくりとしたその動きに、乱菊の内の熾き火がじわりと高められていく。
わざと焦らすように触れてくる日番谷に、乱菊は潤んだ瞳で睨んだ。
「貴方は…本当に意地が悪い……」
ふっと笑った日番谷が、乱菊をゆっくりと敷布の上に横たえる。
そうしてもう一度、その耳元で異国の睦言を囁いた。
その柔らかな響きに微笑んで、乱菊は寄せられる口付けに目を閉じた。
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