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□たとえば君が【L】
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病室のドアを開けると、松本は横たわったまま傍らの窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。
何を見ているのかと興味を引かれて日番谷も窓の外に目をやったが、そこにはただ、雲が空を流れるばかり。
何が面白くてこんなものを眺めているのかと思ったが、記憶を失った松本にとっては、全てものが何の意味も持たないのかもしれない。

「松本」

小さく呼びかけてみれば、松本は緩慢な動きで視線を寄越してきた。

「あなたは……?」

他人行儀な松本からの問いかけに、どうしようもなく胸が痛む。
それでも、なんとか日番谷は松本に微笑みかけた。

「……日番谷冬獅郎だ。十番隊隊長…お前の、上司だった」

「十番隊……」

「お前は十番隊の副隊長だ。虚との戦闘で負傷して今ここにいる。それは虎徹か卯の花に聞いたろう?」

「副隊長…虚……」

ひと言ひと言を確認するように、松本は脳内で言葉を反芻するが、何も浮かび上がってこないことに、ひどくもどかしげな表情を浮かべる。
いや、もどかしいというわけではないだろう。
試験の一夜漬けのために覚えた言葉が思い出せないのと違い、松本の内にその言葉自体が存在しないのだから。

「無理に思い出そうとしなくていい。俺はお前の上司で、お前は俺の部下だ。……今はそれを知っていてくれれば十分だから」

「すみません」

そう言って目を伏せる松本は日番谷の知る彼女とは違い、弱々しい表情を見せる。
こんな顔もできたのか、と日番谷は松本を見つめた。
百何十年と松本と付き合ってきたが、こんなにも松本が弱さを表に出したことはない。
そうして、自分の中にまだ知らない松本がいることを愕然として知る。

「謝る必要はない。……今日はもう休め。また明日来るから」

そう口にしながら、今、自分の顔は引きつってはいないだろうか、と不安になる。
松本も、日番谷を他人のように感じているだろうが、日番谷自身、昨日までの彼女とのあまりの違いに戸惑いを感じざるを得ない。
胸にわだかまるのは忘れられてしまったことへの失望、だろうか。
それとも自分が今まで松本の表層しか見せてもらえていなかったことへの悔しさだろうか。
判然としないまま松本の表情を窺えば、申し訳なさそうに視線を逸らされる。
じゃあ、と気まずく口にして、病室を出、その扉に寄りかかる。

「……やっぱ、しんどいな…」

日番谷が深々と溜息をつくと、脇から遠慮がちに声がかけられた。
見れば虎徹が高い背を丸めて、頭を下げる。

「日番谷隊長、すいません、私がよく確認もしないで伊勢副隊長に伝えてしまったので…」

「気にすんな。別に後から知っても変わんねえよ。ところで、伊勢には……」

「先ほど卯の花隊長が京楽隊長から伝えてもらうようにお願いされてました。たぶん、今頃は聞いている頃かと……」

「そうか…。伊勢にはちょっと酷になっちまったな」

特に虎徹を責めるつもりで口にしたわけではなかったが、虎徹は前髪をくしゃりと掴んで肩を震わせる。

「私がきちんと松本さんの状態を確認していれば、伊勢副隊長をぬか喜びさせることなんてなかったのに……っ」

「悪い、考えなしだったな。別にお前の責任だなんて思ってねえよ。伊勢はなんだかんだで松本には懐いてたからな。どっちにしろショックを受けんのは避けらんなかっただろ。……京楽もついてるし、伊勢だって女だてらに副隊長にまでなった奴だ。すぐに落ち着きを取り戻すはずだ」

「はい……。あの、ところで松本副隊長は……」

今後どうなるのか、そう聞こうとして虎徹はためらった。
今の松本の状況で副隊長職がつとまるとは到底思えない。
十一番隊のように幼い副隊長を支える席官たちのシステムが出来上がっているならともかく、十番隊は隊長である日番谷と副隊長の松本が絶妙の連携でもって隊を統括してきた。
おいそれと誰かが取って代われるような居場所ではないのだ。
言いよどんだ虎徹の言葉の先を察して、日番谷は溜息をついた。

「どうしようもねえ。松本は休隊させる。その間はなんとかやっていくしかねえだろうな」

「休隊……良かった。最悪、除籍もありえるかと…」

「席官の休隊期間は最大ふた月。それでも記憶が戻らなけりゃそれもありえる」

日番谷の絞り出すような声に虎徹は俯く。
松本の心細そうな表情を思い出し、次いでよく知る彼女の笑顔を思い出す。
二つの表情の絶望的な隔たりに、眩暈すら覚えた。
それでも、諦めたくないと思う。
たったふた月でも、その間にあの笑顔を取り戻すために出来ることはしたかった。

「諦めません、私は。伊勢副隊長と同じくらい私だって松本副隊長にはお世話になってるんです。日番谷隊長、私に出来ることがあれば何でもしますから、何かあればすぐに伝えてください」

「ああ……助かる」

すまないな、という日番谷の言葉にふと虎徹はあることに思い至った。

「そういえば……休隊中は隊舎も使えないんじゃありませんでしたか?松本副隊長は流魂街出身と聞いていますが実家は……」

「たぶん、もうねえだろ。家族がいるって話も聞かねえしな。どっかに家を借りようと思ってる」

「でも今の状態で一人住いは……」

「俺も隊舎を出る」

「え――」

「隊舎で今までどおり暮らせるのが一番いいんだろうけどな。それが出来ないんなら、松本の面倒は俺が見る。つっても出来ることなんて限られてるだろうが……。俺の手が足りねえ時にはお前や伊勢に頼むこともあるかもしれねえが、そんときはよろしく頼む。松本は……」

俺の部下だから、と言いながらその言葉に意味以上の想いを乗せる。
たとえ、松本の中に自分という存在がいなくなったのだとしても。
日番谷にとっての松本という存在が失われたわけではない。
松本ならばきっと思い出してくれる、そう信じることで己を奮い立たせる。
そうでもしなければ足元に広がっていく絶望に飲み込まれるような気がした。



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