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□たとえば君が【L】
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隊首室には書類を捲る音だけが妙に響く。
日番谷は手にしていた筆を置いて、深々と溜息をついた。
どれほど松本の安否を心配しようとも、隊長としての仕事を放り出すわけにはいかない。
席官たちには救護詰所にいても構わないと言われたが、あそこにいたとしても扉を前に無為な時を費やすしかない。
それよりも仕事をして、次々と浮かんでくる不吉な考えを振り払うほうがまだましだと思ったのだが、隊首室のあまりの静けさに結局、集中することなどできずに日番谷は幾度となく筆を止めて物思いに沈んでいた。

(たーいちょ、お茶にしませんか?)

(あたし、絶対書類仕事向いてないと思うんですよねぇ)

(昨日、やちるに会って――)

聞こえないはずの松本の声が聞こえるような気がする。
けぶるような金色の髪を揺らしながら、今にも松本が長椅子から身を起こして笑いかけるような気がする。

「仕事もほっぽり出したまま、サボってんじゃねえよ……」

喉の奥から絞り出した声は、情けないほどに震えている。
昨夜から握り締めた手のひらの傷が、再び血を滲ませるのをぼんやりと感じながら、日番谷はその拳に額を擦り付けた。

「早く……戻って来い…」

何度となく松本に繰り返した台詞。
初めて、その言葉に自分がどれほど松本を必要とする気持ちを乗せていたか知る。
叫び、暴れだしたいような激情を、深く息を吸い込んで押さえ込んだその時、突然音高く隊首室の扉が開かれた。
入り口から転がり込むように入ってきた者をとっさに受け止めて、日番谷は目を見開く。

「伊勢……」

いつもはきっちりと身だしなみを整えている伊勢が、髪は乱れ、顔は涙でぐちゃぐちゃにしながら、それでも日番谷の腕をぐっと握りこむ。

「ら、乱菊さん…、乱菊さんが、意識を取り戻しましたっ」

そう言って崩れるようにしゃがみこんだ伊勢は幼い子供のように蹲って涙を流し続ける。
日番谷はとっさに何を言われたのか分からないまま、呆然と伊勢の肩に手を置いた。
小刻みに震えているのは自分の手か、伊勢の肩か。

「おやおや、泣いちゃって。美人が台無しじゃないか」

日番谷が一瞬の自失から立ち直ったのは、伊勢に続いて扉の陰から身を現した京楽の言葉によってだった。

「日番谷くん、聞いての通りだ。乱菊ちゃんの意識が戻ったみたいだよ。すぐに行っておやんなさい」

泣きじゃくる伊勢の身をそっと抱き上げながら、京楽が微笑む。

「十番隊の皆には僕の方から伝えてあげるから。さぁ、早く」

「……っ。すまないっ」

扉から出るものもどかししく、開け放たれた窓から飛び出していく日番谷を見送って、京楽はぽんぽんと伊勢の背を優しく叩く。

「よかった…。ほんとに…よかった…」

京楽の笑みに、伊勢は泣きながらも笑みを浮かべ、その首にぎゅっと手を回した。



*    *    *



「松本……っ!」

飛び込んできた日番谷を、卯の花、虎徹が立ち上がって迎える。
彼女たちの傍らには松本が横になり、確かに目を開いていた。

「日番谷隊長……」

卯の花の言葉も聞かぬうちに枕元に駆け寄った日番谷は、その蒼い瞳に自分の姿が映っていることに安堵の息を吐いた。

「心配させやがって。気をつけろって――」

「日番谷隊長」

日番谷の言葉を遮るように、卯の花が手を伸ばす。
その顔を振り返った日番谷は、そこに浮かぶ表情にふと違和感を覚えた。
松本の意識が戻ったというのに、なぜ、卯の花も虎徹もこんな表情を浮かべているのか。
虎徹は朝見たときよりも顔色が悪い。
確かに、松本は未だ包帯に血が滲み、痛々しいがそれだけのことでこうまで彼女たちが沈んだ表情である理由が分からない。

「あの……」

細い声に振り向けば、松本が日番谷を見上げている。
その瞳に浮かぶのは、戸惑い。
まるで見知らぬ誰かに声を掛けられたときのような。

「卯の花……松本は…」

目の前が、暗く滲んでいく。
日番谷は力なくその場に膝をついた。
そこに、卯の花の、故意に感情を廃した声が無情にも届いた。



「松本副隊長は、記憶を…失っていらっしゃいます」


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