200000HITフリリク

□ゆずりは
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ふくよかな、人の良さそうな男の人の肖像画。
少女はぼんやりとその絵を見上げた。
温かみのある木目の部屋。
広い室内には大きなテーブルと、それを囲むようにたくさんの椅子が並んでいる。
その壁の一角に掲げられた絵を見つめて、少女はほんの少し首を傾げた。
慈悲深い、とはこんな顔を言うのだろうか。
そう言えば傍らで談笑しているこの女性も、病院で初めて顔を合わせたとき、こんな風に薄く口の端を上げるような笑い方をしていた。
時折、少女の髪を撫でるように触れる掌が温かい。
その温もりに俯いて、少女は自分の細りきった手首をじっと見つめた。
小さく、点々と残るのは直径1cmほどの火傷のあと。
肩には絶えず与えられた暴力によって、そう簡単には消えないほどの痣が残っていた。

「乱菊さん、そこに座っていてもいいんですよ?」

手持ち無沙汰な少女に気がついたのか、談笑していた女性が小さな椅子を指し示す。

「もう少し、私はお話がありますから。待っていてくれますか?」

ゆったりと結われた髪のように柔らかな口調で女性は少女に語りかける。
その十歳にもならない少女に話しかけているとは思えない丁寧な口調にも、ここ数日何度も聞かされていた少女は慣れてしまった。
こくりと頷いて足音を立てないように椅子に向かう少女の背に、女性が一瞬だけ悲しげな目を向ける。
小さな少女が倒れていたというゴミ溜めのような部屋を見たときには呼吸が止まるかと思った。
異臭がする、小さな女の子がいたはずだけれど最近姿を見かけない、という通報を受けて警察が駆けつけたときには締め切られているはずなのにドアの隙間からは防ぎきれない腐臭が鼻を突いたという。
生活保護を受給していたという若い母親は三ヶ月ほど前に姿を消しており、そうして少女はここにやってきた。
児童養護施設、慈徳苑。
ここで暮らす少年少女の多くが、少女と同じように庇護してくれるべき手を失ってこの建物の門を潜った。
経済的困窮、児童虐待、ネグレクト。
ここに引き取られる事情はそれぞれでも、どれかひとつが原因で、という子供はめったにいない。
経済的な困窮は無気力と暴力を彼らに与える。
そうして、与えられ続けた愛情とは無縁の非道は、彼らに深く傷を残して。
ぼんやりと、壁に掛かった絵を見上げる瞳には活力と呼べるものがない。
九歳とは思えないほどの小柄な身体に、ひとつ溜息を吐いてその女性は気を取り直すように首を振った。
と、そこにぱたぱたと勢いよく室内に数人の少年が飛び込んできた。

「あっ、卯ノ花先生!お帰りなさい!!」

「ただいま。外で遊んでいたんですね。もうすぐおやつにしますから手を洗っていらっしゃい」

はぁい、と満面の笑みを浮べた少年は一昨年ここにやってきた。
来たときには体中に痣をこさえて、誰を見ても怯えたような目を向けて。
そんな彼が、こんなにも明るい笑みを見せてくれるようになったのは喜ばしい。
たとえ、夜に時折泣きながら飛び起きることがあっても、少しずつ、彼の心の傷は癒えていっているはずだと信じなくては悲しすぎる。
そう、いつかはきっと夜に、理不尽な暴力に怯えずに済むようになるはずだ。
あの少女も、少しずつでも瞳に色を取り戻してくれれば、と卯ノ花は笑みを深めた。

「先生、……あの子は?」

そんな卯ノ花に、少年はちらりと背後に視線を伸ばした。

「今日から皆さんと一緒に家族になる乱菊さんですよ。あとでちゃんと紹介してあげますから仲良くしてあげてくださいね」

「ふぅん、ちっちゃいね」

「でも、恋次さんよりお姉さんですから。ほら、早く手を洗ってこないとおやつがなくなってしまいますよ」

それは嫌だ、とぴょんとひと跳ねして少年が駆けていく。
その背中を見送ってころころと笑った卯ノ花に、先程まで話していた相手がとん、と壁から身を起こした。

「恋次はほんままだまだ子供やなぁ。全然兄さんらしくならへん」

「……あなたがいるから甘えてるんですよ。あなたも甘やかしているようですし」

昨日の晩御飯、恋次の偏食を見逃してあげていたでしょう、と。
そう言って笑った卯ノ花に、その少年はふと口許を緩めた。
その表情は十三歳という年齢には似つかわしくないほど大人びている。

「適わんわ。知っとったんや」

「それはもう。あの恋次さんが嫌いな人参を残してらっしゃらなかったんですもの。気がつきますよ」

「いっつも食べられへんて、べそかくからちょっと手伝っただけや。ひとかけは食うたよ」

ちょっとずつや、と笑いながら少年はゆっくりと椅子に腰掛けたままの少女に向って歩き出した。
先程から変わらず、壁の絵を見上げている少女の傍らに膝をつき、その視線を辿る。

「聖徳太子や」

「……?」

不意にかけられた声に少女が目を瞬かせる。
その瞳に笑いかけて、少年は少女が見入っていた絵を指差した。

「悲田院、いうてな。僕らみたあにおとんもおかんもおらんようになった子供やら、貧乏な人が暮らせるとこ、この人が初めてつくったんやて。せやから、そういう優しい心のひとが見守っとるんやてここにこの絵飾っとるんや。あんま格好のええ顔とちゃうから、ボクは山ピーかエビちゃんのポスターにしとき、て言うてるんやけど」

少年の言う芸能人らしき人の愛称は少女には分からなかった。
テレビや雑誌を見るような生活は、物心ついたときからしてはいない。
よく分からずに首を傾げた少女に笑って、少年がぽんとその頭に手を置いた。

「乱菊、言うんやろ?今日からここが乱菊の家や。ボクの名前はギン」

「……」

ギン、と繰り返すように唇を動かしても長いこと声を発していない喉は掠れたような音しか漏らさない。
しかし、ギンはそんな乱菊の小さな声も拾うように頷いた。

「せや。よろしゅうな、乱菊」

小さな子供をあやす様な所作に。
頭の上に感じる温かな掌の感触に。
乱菊はようやく安心できる場所にこれたのだとゆっくりと噛み締めながら小さな頷きを返した。


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