12/05の日記

16:52
蜜の甘さは毒にも似て
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あ、という小さなその声に、咄嗟に手を退こうとした。が、その時には既に遅かった。
ほんの刹那、重力方向に狂う錯覚があり、瞬き一つにも満たない間、反射的に突き出した両手に衝撃が走り、そして気付いた時には目の前に――
唸りながらゼオンシルトは首を左右に振る。開けていく視界。その目が正しい現実を映しきる前に、彼の脳を支配したのは手から伝わる触感だった。
「ん?」
ぬるり、と冷たく肌に絡まる感触。蜂蜜の瓶を開けた時の数倍は濃く、甘たるい匂い。手の触れている場所は、案の定押し倒す形になってしまったメークリッヒの丁度胸のあたりの筈だ。
ぼやけた視界が漸く鮮明になっていく。床に無惨に零れた蜂蜜と果物をふんだんに使った甘い菓子であったものの名残、そして白い鍋。蜂蜜の絡まったスプーン。やっちゃったか、とゼオンシルトはこの状況に苦笑を浮かべるしかなかった。
「……すまない、ゼオンシルト。台無しにしてしまって」
折角お前が教えてくれたのに、と、小さく響く、メークリッヒの声。
悄然と落ち込む黄金の瞳。それを覆う睫毛はいつもの銀白色とは違う色をしていた。――見事に琥白色でコーティングされているのだ。睫毛だけではなく、顔中。否、身体も。
見ればメークリッヒの頭に蜂蜜の瓶が帽子のようにちょこんと乗っていた。
透明な硝子の瓶の中身は勿論空。ぶちまけた蜂蜜の大半を、メークリッヒが被ってしまったようだ……ついでにあちこちに果物も絡まって。
「謝らないで。オレは別に気にしてないから」
そうゼオンシルトが云っても、釈然としない様子でメークリッヒは眉を顰めたままだ。それはそうだ。つるりと脚を滑らせたメークリッヒを支えようとその手を引こうとしたゼオンシルトもまた蜂蜜と甘い菓子に使った果物の被害を被っている。しかし、身体中べたべたであろうメークリッヒ程ではない。
確かに非は色んなものを巻き込んで盛大にこけた彼にあろうが、こんな事で怒るほど器量は狭くはない。何より、気を張っていない時の彼は、多少、否、大いに間が抜けているのだから、何もないところでこけるという絵に描いたようなどじっぷりは今に始まったことでもない。
けれど、大分気にしているのか、彼の表情は一向に晴れる気配がない。
参ったな、とゼオンシルトは胸中で呟いた。
どう云って慰めようか。でも、ここまで落ち込んでいると何を云っても無駄かもしれない、と思っていると。
暫しの間を置いて、漸くメークリッヒの口唇が小さく動いた。
「……ルキアスに叱られる……」
がくり、とゼオンシルトは頭を垂れた。そこなのか! と思わず裏手で突っ込みを入れてしまいそうだった。もしかしたら酷く落ち込んでいたのもその理由からなのかもしれない。
まぁ、この状況を見れば、家庭的である件の少年が怒るのは目に見えている。それに、これは確かに勿体無い話ではある。それでなくとも蜂蜜は高級食材だ。ルキアスならずともゼオンシルトとて惜しいと思っても不思議ではない。
もう、どかせ、とばかりにゼオンシルトの手を握るメークリッヒの指先には金色の蜂蜜がたっぷりとついている。その蜂蜜の輝きが、ゼオンシルトの冷静な思考を狂わせていたのかもしれない。
「ゼオンシルト……っ!」
もう片方の自由な手で、メークリッヒの手を引き剥がす。とろりといまにも垂れだしそうな、メークリッヒの指先の蜂蜜。メークリッヒが呆気に取られているのをいい事に、手首を握って口唇へと運ぶ。人差し指はすんなりとゼオンシルトの口の中に入っていった。舌で人差し指についた蜂蜜をぐるりと全て舐め取ってやる。想像以上に風味があって濃密な甘さ。舌の上で蕩けていくそれに、メークリッヒのどこか甘ったるい声が添えられて、とても美味しかった。
ここまで美味しい蜂蜜を丸々一瓶無駄にしてしまうのは、一農民としてその気苦労を知る者としてはいただけない。びくりと身体を震わせるメークリッヒを余所に、今度は中指を、薬指を、掌を、手の甲を、舐めていく。
「あっ……っ、やめろ、ゼオン……!」
「え? ……ああ、ごめん」
メークリッヒが腕を払ったのに、漸くゼオンシルトは自分が何をしていたのか気付く。目の前にあったのはメークリッヒの真っ赤な顔だ。白銀の髪に隠れがちな耳朶まで真っ赤に染まっている。それはまるで赤々とした果実の如く。
「……けど、凄く美味しいんだ、この蜂蜜。……君の身体についているからかな。前食べた時よりも美味しい」
「っ!」
メークリッヒの顔に赤味が増す。恥ずかしそうに睨んでくるのに真っ直ぐに視線を合わせれば、ばつが悪そうに目を逸らした。それがまた可愛くて、今度は口付けと一緒に頬についた蜂蜜を舐め取る。
「ほら」
ゼオンシルトは自分の指をメークリッヒの口許に差し出した。
「君も食べてみなよ。凄く美味しいから」
ぐっ、と口唇を無理矢理に割って、強引に咥内に蜂蜜のついた指を押し入れる。
初めは嫌そうな顔をしていたメークリッヒだったが、逃げようとする舌の動きに先じて、歯列の根元から口蓋、頬の粘膜を擦り上顎を擽ると、鼻に掛かった甘い声を洩らした。
咥内を好き勝手に弄られては観念するしかないと思ったのであろう彼は半ば自棄糞気味に含まされた指を舐め出したのだが。その光景は酷く卑猥であった。
切なげに眉宇は寄せられ、二本の指で蹂躙している為に、溢れた唾液が口の端から零れ咽喉へと零れていく。辺りに充満した甘い匂いとその光景に、ぞくりと背筋に震えが走った。
メークリッヒの咥内に蜂蜜の味をたっぷりと思い知らせてからゼオンシルトは指を抜く。
「美味しかっただろ?」
「…………」
メークリッヒは声こそ出さなかった、こくりと頷いた。甘い菓子が一かけら、メークリッヒの目の横についていた。口で咥えて、そのまま口唇に持っていく。我ながら上出来だと思っていただけあって、柔らかな桃はふたりの舌の上で蕩けていく。
「ねぇ、メークリッヒ」
ぎゅっとべたべたな身体を抱きしめて、ゼオンシルトはメークリッヒの首に垂れた蜂蜜を舐めながら云う。
「君の身体の蜂蜜、全部食べていい?」
君ごと、と耳許で囁く。びくりと彼の身体が甘く震えるのがわかった。
「ルキアスくんに怒られるのは嫌だろ? 大丈夫、安心して。ちゃんと君にも食べさせてあげるから」
甘ったるい匂いが、脳まで蕩けさせているかのような気分だった。


-fin-

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