10/22の日記

17:47
せめて選択肢を下さい
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振り返った深紅の瞳が、真っ直ぐと己を見詰めていた。逸らされる事のない刃のような視線は、呼吸さえも一瞬奪い去るかのような迫力を秘めていた。意思の強さを感じさせるその力強い眼差しに、包み込むような優しさがあるのは痛いほど知っている。
それでもつい何もしてないと言い訳しそうになるのは、もはや条件反射だ。
「メークリッヒ」
「――な、何だ、ゼオンシルト」
微量ではあるがその声音には明らかに怒気が孕まれていた。ゼオンシルトがそのような感情をメークリッヒに見せる理由がわからない。本当に、わからない。だから、どうすればいいのかなんてもっとわからない。
苛立たせたり呆れさせたりする事はあっても、明確な怒りの感情を向けられた事は未だかつて一度もないのだ。初めて見る表情に慄きながら、メークリッヒは底光りするゼオンシルトの瞳を息を呑んで見守った。
「自覚ある?」
「……へ? じかく?」
「そ、ちゃんとわかってるのか、って」
予想外の言葉に戸惑いを浮かべれば、やっぱりなと溜息が返ってきた。
だが残念ながら、ゼオンシルトの言葉にもその反応にも全く身に覚えがない。
「どうせそうだと思ってたけど……仕方ないな」
「あ、あのゼオンシルトひとりで納得してないで説明してくれないか」
「説明してわかるなら苦労はしてないよ」
「いや、確かにそうかもしれないが……だが、その話せばわかるかもしれないだろ」
とても不穏な気配が感じ取れて、慌てて説得にかかる。
嫌な予感というものは不条理だと嘆きそうになるぐらいに的中するものだ。
「……やっぱりこれが一番か」
明るい声が、逆に冷たい危険を伝えてくる。
逃げる間も問い質す間も、残念ながら与えてもらえる状況にはないという事だけが、頭ではなく直感で理解できた。
「――え?」
「悪いね」
寸分たりとも悪いという感情のこもっていない形だけの謝罪の言葉と共に、視界の中でゼオンシルトの身体が僅かに沈みこむ。
滑らかでしなやかな動きだと感心する間もなく、次の瞬間に鳩尾に握り込まれた拳の一撃を強かに叩きこまれ、そのまま身体を二つに折った。
強烈な痛みに強制的に、肺の中の空気を吐き出さされる。呻き声は喉の奥で潰れ、視界がちかちかと光り、手足から力が抜けた。
自分の身体を支える事すらできず、膝を折るようにして地面に崩れる。
急速に意識が遠ざかっていき、メークリッヒの身体を受け止めるように差し出されたゼオンシルトの腕の中に倒れ込んだのだけは辛うじてわかった。
そして柔らかい呼吸が耳朶をくすぐるように触れ、
「ほんと手の掛かる人だね、君って」
と呟かれた音を最後に、静かに意識を手放した――


「ん……」
ゆっくりと覚醒してくる意識と共に瞼を押し上げると、質素な作りの天井が広がっていた。
身体中が気怠い。感覚が曖昧で、自分の存在を確認するようにゆっくりと手を動かすと、柔らかいシーツの感触が手の甲に伝わってくる。
「目、覚めたのかい」
妙に耳に心地良い響きがして、声の方に身体を向けようとした。
「ぜおっ――! っ!」
だが僅かに身体を捻ったところで激痛が走り、痛みを庇うように身体を丸める。
ずきずきとした鈍い痛みが脳髄にまで響くようだった。腹の奥が重い痛みに支配されていて、動くことはおろか呼吸する横隔膜の動きですら痛みを引き連れてくる。
一気に吸い込んでしまった空気を、意識してゆっくりと吐き出した。痛みを庇いながらのゆっくりとした行動は、それでも随分と痛い。
そして何故ここで寝ているのか、さっき何があったかを一気に思い出す。
「あんまり手間かけさせないでくれよ」
「手間って……これはおまえの、」
痛みの元凶である一撃を躊躇いもなく全力で叩きこんでくれた相手は、身体を支えるようにしてメークリッヒをゆっくりとベッドに戻した。手つきは優しいし覗きこんでくる表情もいつもと変わらないが、何となく居心地の悪いものが背筋を伝う気がした。
いや、そもそもこの痛みの元凶も全て、目の前で甲斐甲斐しく手を差し伸べてくれているゼオンシルトが発端なのだ。
いかに頑健が取り柄だとは云え、彼のその拳を平気で受け止めるなどという事ができる筈もない。しかも油断したところに喰らわされては尚更。
「殴らなきゃわからないだろ」
「殴られたらもっとわからないんだが」
声を上げて抗議すれば、ゼオンシルトの瞳に険呑な色合いが浮かび上がった。
思わず身構えてしまう刃のような気配は、さっき殴ろうとした時に一瞬見せた気配と同じものが漂っている。
「自覚ないのかい?」
「それはさっきも云ってが、何についての自覚だ?」
「つまりこの期に及んでまだ、隠し通せてると思ってるって事か」
「だからいったい何のこ――――っ!」
言い終わる前に、ゼオンシルトの腕がメークリッヒをベッドへと押し倒した。
肩をシーツの上へと縫い付けるように押し付け、身体ごと圧し掛かるように覆い被さってくる。抵抗しようと力を込めたが、殴られた部分の痛みが強烈に響いてすぐに押し切られた。
ほんのりとした灯りを背にしたゼオンシルトの表情に影が差し、深紅の瞳を深淵に変えている。
飲み込むように深い色合いがメークリッヒを包んでいた。
「抵抗してみなよ、メークリッヒ」
「ゼオンシルト、冗談は……」
「君が本気を出せばこれくらい押し退けられるだろ?」
両肩を押さえつける親指が鎖骨の下に食い込むように力を掛けられる。
自由になる手で覆い被さってくるゼオンシルトの身体を押し退けようとしたが、痛みでうまく力が入らずに、ただ腕を力なく握るしかできなかった。脚を動かして逃れようとしたが、一瞬早く察したゼオンシルトが痛む鳩尾に膝を容赦なく叩き込んできて、痛みで意識がまた遠退きかける。
短い呻き声が漏れ、苦い胃液味が口の中に広がった。
自分はこのような仕打ちを受けるような何かをしただろうか。
「……なんの、まね、だ」
「身体でわからせた方が早いだろ」
痛みで滲んだ視界の中で、ゼオンシルトは不機嫌さを隠さない顔でそう言い放った。
「だから、いったい、何が……」
肩に加わる力が緩められる事はなく、痛みを訴えている身体に容赦なく動きを封じるように圧し掛かったまま、ゼオンシルトが近づいてくる。
強引に重ねられる口唇。
抵抗しようときつく閉じた口唇は、けれど肩と鳩尾に加えられる痛みによって開かされ、無理矢理入り込んできた舌を受け入れさせられた。
貪るように重ねられる口唇と、遠慮なく咥内を弄る舌。蹂躙するように口唇の裏を舐め上げ歯茎をなぞり口の奥を暴くように侵入してくる。逃れようとするメークリッヒの舌は吸い上げられ、痛みを感じるほど強く歯を立てられた。
すぐ前の瞳が、殺気とも情欲とも区別のつかない色を浮かべている。
「はっ、ちょ、もう――や、めっ」
何とか口唇から逃れるが、ゼオンシルトはさして気にした様子もなく、次はメークリッヒの首筋へと舌を這わしてきた。
ざらりとした感触が首の付け根から耳の裏へと走り、身体が無意識に打ち震える。舌は耳の後ろを丁寧に舐め上げると、耳朶を甘噛みしつつぴちゃぴちゃと卑猥な水音を流し込んできた。
無遠慮に煽られた熱が、それでも隠しようのない塊となって身体の奥から染みだしてくるのがわかった。
「――体調悪いよね」
不意に響いた静かな声に、動きを止める。
「…………え?」
「それも三日ぐらい前から」
「それ、は、」
「しかも今朝からまた酷くなった。熱があるんだろ。喉や頭だけじゃなくて、指先も痺れるように痛んでる」
淡々とした言葉に、反論できなかった。その通りだったからだ。
だが三日前の不調は、ほんの小さな違和感程度のものだ。
痛みも熱もなかったし動きにも全く支障がなく、起きぬけの気怠さ以外はいつもと何も変わらなかった。メークリッヒ自身ですら少し疲労が溜まっているのかなぐらいにしか思っておらず、特に気に留めてもいなかった程度だ。だからこそ不調など端から見てもわからなかった筈なのに。
「どうして――」
「気付いたのか、なんて台詞を聴く気はない」
両腕をシーツに突き、メークリッヒを閉じ込める格好でゼオンシルトが見下ろしてくる。
「ついでに脇腹の傷、いつ白状するのかと思ってたんだが、これも黙り通す気だったのか?」
皆から離れた時に、隠れて癒そうと思っていた傷まで指摘されれば、完全に黙り込むしかなかった。
「無理するなって云った筈だ」
「……これぐらいなら大丈夫かと思って、」
「オレの一撃すら避けられない状態で?」
あの至近距離の不意打ちは万全の体調でも回避不能だとは思ったが、さすがにこの状況でそれを口に出してさらに怒りを買うような事態は何とか避けた。
「左後方の魔物に反応するのがコンマ二秒ほど遅い。術の詠唱が僅かに長い。抜刀するタイミングが半呼吸分遅い。移動時の歩幅が数センチほど短い。……しらばっくれるならもっと云おうか」
「……いや、いい」
「倒れない限り休まないつもりなのかい」
「――すまない」
言い訳すら出来ずに謝ると、ようやく身体が解放された。
ただ、見下ろしてくるゼオンシルトは完全に納得した表情はしておらず、不承不承という感じだ。
「どうだか」
「本当、もう無理はしないから。おれだって何度も殴られたくはない」
「結構君痛いの好きだろ? だから無茶ばかりするんだろうし」
「それとこれとは別だろ」
だから退いてくれとお願いする。
するとゼオンシルトは少しだけ首を傾けて思案する表情を浮かべると、何かを思いついたように口の端に笑みを浮かべてメークリッヒを見下ろしてきた。
脳が警鐘を鳴らす。この手の表情の時には碌な事がないのだ。
それそこついさっきにも身をもって叩き込まれている。
「いい事思いついた」
「……そうかそれはよかったな」
「つまり動けなくなればいいって事だよね」
話事態を流したつもりなのに全くこちらの返答を聴いてない。というか、それってどういう理屈なのだろうか。
確かに動けなくなれば無理も無茶も言い訳もできやしないけれど、それは間違いなく手段と目的が変質してしまっている。病気にかからないように死んでおけ、というようなものだ。
「あ、あの、ゼオンシルト?」
「痛いのと気持ちいの、どっちで動けなくなりたい?」
満面の笑みは、既にどちらを実行するか決めている顔だった。
いや、もしかしたら両方実行に移そうと企んでいるのかもしれない。そして手加減する気も別の選択肢を探す気も全くないと、はっきりと物語っていた。
どっちも遠慮したい。という虚しい願いを心の中だけで叫んで、引き攣った笑み返すのが精いっぱいだった。

-fin-

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