『召しませ、至福の愛』
「名前」
「何?」
広間で瓦礫に座って読書をしていると、いつの間にかクロロが側に来ていた。
「名前、この本なんだが…」
さっきまで遠くで本を読んでいたクロロは、分厚い本をパラパラとめくり、目的の場所が見つかったのか私の隣に座り本を見せる。
「これ読んでくれないか?この部分」
「えっと…“囁く振りをして彼女の首に手を回し鎖骨の上に喰らいつき、紅い跡を幾つも付けた”…ね。すごく古い文字だよ、これ。年代ものみたいね」
「あぁ。最近見つけたんだが、難しくてなかなか進まないんだ」
「へぇ、めずらしいね」
「名前には負けるさ」
「そりゃ学者ですもの。負けたら廃業しますわ」
「はは、そうだな」
礼を言うと、彼は私の隣に座ったまま続きを読み始めたみたいだ。
私は学者をしている。専門は考古学、語学、数学、物理、化学。ほかにも色々噛んではいるが、主なのは始めの二つだ。でもそれは、表向き。
「どういたしまして」
そう言って私はまた本に目を戻したが、しばらくすると本に影が差す。顔を上げて見れば、クロロが私の読んでいた本を覗きこんでいた。
「何を読んでるんだ?何も書いてないが…」
「念で書いてあるんだよ」
「…見えないぞ?」
クロロは凝をやっているが、見えるはずはない。
「念で文字を書いた上を念の紙で覆ってあるの。この本はそれが4層になってるから、普通の念使いには分らないよ。私は読めるけど」
「へぇ、すごいな。さすが学者さんだ」
「でしょ?」
これが本業。密書やインターネット上のメールに使われる暗号などを読み解いたり、逆に書いたりするのが私の仕事だ。他にも情報屋としても活動している。副業みたいな物だが、暗号の知識があると中々情報を得るのは楽で、それなりに楽しくもある。
「そうだ」
「ん?」
クロロは何か思い立ったのか、突然立ち上がりすたすたと行ってしまった。まぁいいかとまた本に目を戻す。と、今度は明るい声が聞こえた。
「あ、名前来てたのー?」
顔を上げると、シャルがこちらに走ってくるのが見えた。
「シャルー!久しぶりー」
「久しぶり。どうしたの?仕事?」
「あ…そうだった!」
着たら誰もいなかったので読書にふけってしまってた。途中からクロロがいたのだが、彼も読書を始めたので特に何も思うところが無かったが、自宅から程近いここ、蜘蛛のアジトに来たのはクロロからの依頼のためだった。
「団長は?」
「分んない。どっか行っちゃった」
「じゃぁ、ご飯行かない?いい店見つけたんだ」
「本当?行く!あ、でも仕事終わったらね」
「じゃあ部屋にいるから、声かけてね」
「うん。分った」
またね、といつもの笑顔で去って行くシャルに手を振る。と、背筋がひやりとする。
「名前」
「うわ!」
声の主はクロロである事は明らかなのだが、振り返ると彼は何だかどんよりとした雰囲気で猫背で立っていた。
「びっくりさせないでよ!」
「…シャルと遊ぶのか?」
「え?うん。仕事終わったらね」
「…」
「クロロ?」
「そうか!」
「うわ!いきなり大きい声出さないでよ!」
「すまない」
さっきのどんよりは消えて、クロロは満面の笑みだ。
「クロロ気持ち悪い」
「な!!失礼だぞ!」
「それより、仕事で呼んだんでしょ?何?」
「仕事はまだだ」
何言ってるの?
「仕事が終わったら遊びに行くんだろ?だから仕事はしない」
「何それ?じゃあ、仕事ないなら遊びに行くね。また呼んでね」
クロロに背を向けて歩き出すと、腕を掴まれる。
「帰るの」
「それも駄目だ。」
いつもながら面倒な男だ。
私は少しだけ殺気を飛ばして、努めて低い声を出す。
「仕事か遊ぶか、どっちかしかする気ないよ?」
「う…仕事で…」
よし、勝った。
私とクロロはいつもこんな感じだ。
「これなんだが…」
私の腕を離すと、もう片方の手に握られた本を差し出した。