そらをみあげて

□序
1ページ/3ページ

 俺は、普段あまり家に帰らない。家出ではないが、まあ、それに近い。
 実家は巨万の富を持つ資産家で、何不自由なく育った訳だが、逆にそれが俺には物足りなさを感じさせた。
 ハングリー精神とか言うやつか? ゆえに早く家を出て自活したかった。親の手前、大学進学こそしているが、単位ギリギリしか行っていない。
 今日も街をうろついているところを、実家の使用人に見つかったらしい。親父に呼び出されて、こってり二時間は搾られた。
 だいたい俺は、跡継ぎじゃないんだ。
 そんなに目くじら立てなくてもいいじゃないか。
「また叱られたのか、子方」
 大きな溜め息をつきながら親父の部屋を出ると、そこには兄貴が立っていた。
「そこで聞いてたなら助けてくれてもいいじゃないか」
「それではお前の為にはならないからな」
「ふん……」
 兄貴の名は糜子仲。
 この大資産家、糜家の跡継ぎだ。容姿端麗、頭脳明晰、おまけに馬術とアーチェリーをやらせたら右に出る者は無い。生まれながらの王子様ってやつだ。
 俺が勝てるのは、身長と腕っぷしくらいしか無いんだよな……。
 兄貴は、生まれつき病弱だったから、一緒に走り回って遊んだ記憶は俺にない。
 そんな兄貴は、大学も博士号まで取得して卒業し、親父の仕事を手伝っている。
「なあ。今度、釣りに行かないか?」
「釣り?」
「親父のクルーザー借りてさ、海釣りしようぜ」
「またお前は……。子方、今叱られたばかりだろう」
「たまには息抜きも必要なんだよ」
「息抜きって、お前は息抜きの方が長いだろう」
「じゃ、兄貴の息抜きってことで。日曜日迎えに来るからな〜!」
「子方!」
 勝手に決めてしまえば、兄貴は渋々ながらも付いてきてくれる。今にも説教を始めそうな兄貴をそこに置き去りにして、俺はさっさと自分の家に帰ることにした。


 日曜。実に見事ないい天気だ。日頃の俺の行いがいいお陰だろう。
 約束通り、俺は兄貴を迎えに実家へ向かった。
「どちらかと言えば、お前が押し掛けてきた、だろう」
 開口一番、兄貴はそう言った。釣具もクルーザーのキーも、そのクルーザーを動かすのに必要な人員も実家なのだから、兄貴の言い分は尤もだが、まぁ、そこはそれだ。
 使用人たちには、荷物を持たせて先にマリーナに行かせてある。あとは自分たちだけだが、車で行くのも芸がないな。
「車は来ているのか?」
「いや、電車で行こう」
「電車?」
 兄貴には、普段、全く縁のない乗り物だ。
「そう、電車だ」
 兄貴の目が輝きを増したのを見た時、俺は心の中で思いっきりガッツポーズをした。

「これを……ここにかざせばいいのか?」
 ICカードを改札機に恐る恐るかざす兄貴。ピッと音がして改札のゲートが開く。
「ほら、早く通らないと、後ろがつかえるだろ」
「面白いな、これ」
 感心しきりな兄貴の背を押して、続いて改札を抜ける。まるで初めて電車に乗る子供みたいだ。ま、確かに初めてではあるが……。
 マリーナまでは特急に乗って行かなければならないが、指定席などは取らず、あえて普通席を選び、二人掛けのボックスシートに座る。
 車窓から見る景色を食い入るように見ていた兄貴が、ふと、眉間に皺を寄せた。
「どうした?」
「いや……、少しはしゃぎすきたみたいだ」
 胸を押さえる。
「痛むのか?」
「少し、な」
「大丈夫か? 少し横になるか?」
「大袈裟なやつだな。この程度なら直ぐに消えるから心配するな」
 この程度? どうも引っ掛かる言い方だが、本人が大丈夫と言うのだから大丈夫なんだろう、この時はそう思った。
 三十分程で最寄り駅に到着、先発させた使用人の迎えの車でマリーナへ向かう。受付など面倒なことは使用人たちが済ませている。俺たちは乗り込むだけ。
 ……だったはずなのだが。
 親父のクルーザーの隣に停泊していたクルーザーの前で、何やら揉めているおっさん二人組がいた。
「クルージングは次の機会の楽しみにしようではありませんか、教授。そんなに落ち込まずとも……」
「えぇい! これが落ち込まずにいられようか!」
 揉めてるというか、一人がキレてるようにしか見えんな。
「絶対、落ち込んでねえよな、あのおっさん」
「そうだね……。どうしたのだろう?」
 会話から察するに船が何らかの原因で出せないでいるらしい。
「あの……、どうされたのですか?」
 生来、お人好しが過ぎる兄貴は、止めとけばいいのに、二人に話し掛ける。
「おや、これは周りにご迷惑を……」
 ぶちギレていたおっさんを宥めていた、異様に耳のでかい方が答える。
「実は、曹教授の船がエンジンの故障で動かないのです。共にクルージングをと、教授の別荘に招待されたのですが……」
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ