小説
□【序章】
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「おの……れ…」
低い声の響く、暗い空間に一人の女が立って居た。
透き通るような白いその肌は、泥や血で汚れている。
小柄な女の身体には不釣り合いな大振りの剣を握締め―――その剣を所々に汚す血は、無論女のものではない。頬に散った血を拭うこともせず、女はそこに立っていた。
「…残念ね」
やがて女が呟いた。
「私の里は貴方などに滅ぼされない。沢山の人が私を慕ってくれているから…」
『人間ごときが集まったところで何が出来るというのだ。そんなものに私は殺られぬぞ――絶対に』
「―――人の絆」
これほどに強いものは他にないわ…そう言うと女は前に一歩踏み出した。
そこに…何か居る。
女の前に、うずくまるように。
紫の衣を纏った、男だ。
紫暗の瞳で長い黒髪を背に流した、その男の脇腹には、今も赤い血で塗られている。その傷を手で押さえながら―――立ち上がることさえ出来ず、男は前に立った女を睨み付けている。
血で汚れた剣を手に握った女を…。
「ねぇ、八雲」
女は呟き、男の前に屈むと、その頬にそっと触れた。
「私は貴方の事が大好きだった…今も気持ちは変わらないわ。…いつかこの里を自分の物にするって、貴方の困った夢の事を聞くのもそんなに嫌じゃなかったのよ…?」
『戯言を…』
「だから、ね」
だから…と女は繰り返した。
「私に貴方は殺せない。だけど貴方のその夢を叶えさせる訳にもいかない…」
女は立ち上がり、剣を鞘に収めた。そして代わりに腰に差していた短剣を抜いた。色とりどりの装飾が施された、手に収まるほどの小さな剣。
それを見て男は笑った。
『愚かな…。いつの日か再びこの世に居出て、この次こそこの里を手に入れてみせるぞ―――』
「えぇ、どうぞ」
切っ先を下に向け、女は剣を握り締めた。
「その時は私の子供達が…次の『水無月』がきっとこの里を守ってくれる。貴方はその時滅べば良いわ」
だから…女は言った。
「……いつかまた、あの世で逢いましょう」
女は一思いに短剣を男の頭上に振り下ろした。
凄まじい風が起こり、硝子が割れたかの様に男の姿は散って消えた。
『おのれ……ッ』
誰もいなくなったその空間に、男の声が響いた。
『忘れぬぞ!いつか…いつの日か必ずやこの里を――――!!!!』
『―――――水無月!!!』
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