花筏−おもひのいろ−

□前日譚 花蕊
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鈍色の重たい雲からしとしとと霙が降りはじめた昼下がり
甲賀弾正屋敷の一郭で静かながらも一驚の声が響いた




「弾正様…今しがた何と仰られたのでしょうか?」



頭領の言葉に一瞬耳を疑いつつ、豹馬はやや困惑気味に答えた



「もう一度いう…夕澄の指南役に任ずる。
 …気が進まぬであろうが…よいな豹馬。」



…− 一刻の静寂 −…



潜考しあぐねる豹馬は重い口を開き弾正に尋ねる

「憚りながら弾正様…、
 此度のお役目いま一つ承服しかねる点がございます。」


「ほぅ…やはり合点がゆかぬか…申してみよ。」


疑問を差し込む重鎮の問いに弾正は、目を細めながら冷厳とした口調で答えた

粛々と巌しい頭領の声色に、豹馬は己が抱く疑念を口にする


「宗家の姫たる夕澄様に何故…、
 色の手ほどきをご教授せねばならぬのかと…。
 当方合点が参りませぬ。」


臆することなく疑心をたれる重鎮の様子に、弾正は流石だと感じ入りながらも、
やや険し気味に語り始めた


「やはり…、真意を言わねば甚だ承諾しぬとみた。
 …今からそちが聴き知ること…、決して他言無用…よいな。」


何時もに増して重々しい弾正の声色に豹馬は、
幾ばくかの不安を覚えつつ頭領の言葉を清聴する



「宗家の娘たる夕澄が目付け役を引き受けた際、
 他に適役は居るのではないか?…と儂は問うた。」


「…その件、我らも些か不思議に思うておりましたが…、
 …夕澄様は何と仰せに…。」


「…こう申しよった。」



『宗家の者である前に私は…、薬師としての命を優先しとうございます。
 代々続く卍谷の薬師業を受け継ぎ、それを後世に残す…
 それが私の使命であり誇り…と、ご所存いただきとうございます。』



「と、な……。」


「ならば…と、儂は確かめた。」



『その志し…、覚悟はできて居るのじゃな。
 卍谷秘伝の房中術…薬師として会得せねばならんことを。』




件の内幕を聞き知るに豹馬は心の中で悲痛を感じる…


「…かように…、なにも夕澄様を試さずとも、
 他に道はあったと…思われまする…が。」


やや悲哀交じりで語る豹馬の問いに、弾正は重たい口を開いた


「脇腹とはいえ、夕澄も儂の孫…。
 姫と敬まわれ崇めたてられる身分なれど、それを自ら手離し、
 あくまで薬師として終生まっとうしたいと申した。
 血脈故かなんとも…肝の据わった娘よ…。
 それ故に、不憫でならぬ…。」


哀隣をひそませた弾正の言葉に、頭領としてではなく翁の面を覚えつつ、
豹馬は沈痛気味に声を漏らす


「夕澄様は…承諾…なされたのでございますな。」


「うむ…承諾しおった。」


薄々心掛けてはいたが、直に夕澄の抱きし信念を知るに、
豹馬の心に悲しみが満ちる…



斯様な星のもとお生まれでなければ、かかる苦労も無かったであろうに…

理なきこととはいえ、なんともお労しいかぎりじゃ…


そう夕澄を憂慮する中…ふと一つの疑念が胸をざわつかせる

それは彼にとってお役目以上に肝要ならざる儀であった


「弾正様…、何故手前を夕澄さまのお相手にお選び下さったのか…
いま一つ納得しかねております。」


「これが他の男ならば…我が身に起きた最大の僥倖と歓喜し、
 即座に承服しおったものを…。
 己が得心なくば承諾せぬか…、ふっ…弦之介が信頼を置くのも頷ける。」


そう新ためて豹馬を感慨深く見つつ弾正は一層重々しい声色で核心を語り始めた…



「薬師ではあるが夕澄はれっきとした宗家の娘、その務めたる相手は小物ごときでは不相応。
 しかもこの任は、宗家の名を穢す恐れがある故に、秘事(みそかごと)として行う必要がある。
 …守秘義務を負い、宗家の姫とつり合いが取れる身分であり、尚且つ熟練した男…。
 室賀豹馬よ、そちを居いて誰が居る!?」


頭領である甲賀弾正、そして跡目である甲賀弦之介の次に卍谷の実力者は?
と聞かれたら、甲賀衆は口を揃えて彼の名を挙げる



ー室賀豹馬ーそのご人こそと



卍谷最強を誇る忍法(げい)を練脈と伝えし室賀一族…
その忍法たる瞳術は血族の者以外身につけること能わず

故にその力を高く買われ、頭領家との縁組が成され

約束されし翹望の子ー弦之介の師となり十数年、

上忍筆頭まで上り詰めたる豹馬は今や卍谷の重鎮、
宗家ならびに陽炎に次ぐ家格の扱いを受けるに至った


だが、忍法以外にも彼を実力者と認めたるはその人柄にある

血気に走りやすい面々である武闘派の忍らを
牽制する発言力を持ち、

常に対局を冷静に見据え、無益な争いを好まない穏和な性格
…故に一部(おもに刑部)からは弱腰と口撃されてはいるが

気脈を通じる弦之介様から配下の中で特に篤い信頼を置かれている…

ともなれば言わずもがな室賀豹馬こそ、
宗家を覗き卍谷の大将格…一同皆認めし事柄であった


面には出さぬまでも、内心かくも自身はようここまで上り詰めた…と、

…−険しき己が半生ー…に矜持を抱かぬ男はいない…豹馬も一様であった




まさか其れを見込まれての指南役…


思いもよらぬ苦任なぞ、幾度か務めてはきたが…

…此れは今までにない慮外なる役儀…


様々な思いが駆け巡る…複雑怪奇なる心中とはこの事か…と思わず自問する

そして甚だ気がかる件の訳、豹馬は低く呟いた


「…当方が指南役だという事を夕澄様は、お知りなのでございましょうか?」


「承知しておる。」



既にお知りであったとは…


どのような思いでお聞きになり、どのような思いでお受け入れなさったのか


夕澄様…



頭領たる弾正様直々に下された任…、そして夕澄様の切なる決断を考えるに…


宗家お二人の意向を汲むは己が以外居らぬ…と豹馬は心を決めた


其れを見止めつつ弾正は再度問う


「この役目引き受けてくれような豹馬。」


「…弾正様の熟慮並びにご意向はごもっともでございます。
 不相応なれどこの豹馬お役目謹んでお受けいたす。」


迚もかくても承諾した豹馬に、心ゆるびたる思いの弾正は、

死活的に重要な案件を重々しく綴った


「うむ…それとな豹馬…、心して聞け。この秘事けっして弦之介に知られてはならぬ。」


宗家にまつわる秘事なるに何故、弦之介様が省かれるのか…?

豹馬はその事実に戸惑いながらも、弾正の意を問うた


「何故…弦之介様に申し送りなさなぬのでしょう?」


「…分からぬか豹馬よ⁉妹を夕澄をことのほか溺愛しておる弦之介に、
 件が知れれば大事は必死…。この儀、弦之介の意を汲むくに及ばず!
 そちにはちと辛い任になるが…所期しておるぞ豹馬…。」


「…は、ご期待に添えるようこの豹馬、大任を…必ずやあい務めてみせましょうぞ。」





居室を後に、豹馬は一人重い足取りで先ほどの秘事について考えあぐねていた


頭領である弾正様の命そして意向は、
孫娘である夕澄様を鑑みての苦渋の決断…その心中をお察しするに偲び余る

なれど…妹姫への慈愛を踏みにじり、己が忠誠心までも騙し、
弦之介様を欺くことになろうとは…
正に裏切り者の所業ではなかろうか!?



そして、最愛の女(ひと)の忘れ形見である夕澄様と、
お役目とはいえ斯様な仲になるとは…夢にも思わなんだ

悲しき宿業をお負いし夕澄様…

只々哀れと…、ご幼少のみぎりより憚りながらも父として親しくさせていただいたが…



何時からだろう…、妙齢に差し掛かろうとする夕澄様の中に

その母の、愛しき恋人の面影を重ねるようになったのは…


ーそして 窺い知る、夕澄様を憎からず思う己が心をー



…だが夕澄様は形代ではない



斯様な邪念を抱くことなど夕澄様を侮辱したも同じ

あくまでお役目…と割り切り自制するしか法はない


そうしなければ…引き返せなくなってしまうやもしれぬ







何たる縁の巡り合わせか…、

紡がれし宿命にひとり懊悩たる思いの豹馬の頬にひらりと一粒、六花が舞い降りた


いつしか霙は雪となり、一山を覆いつくす銀華は卍谷を深雪の世界へといざなう

片手を外に出し、しんしんと降りしきる雪の感触をその手で確かめる


「初雪か…」


…−あれから壱参年も時が過ぎたー…


そう、あれは同じ十一月


初雪がしんしんと積もりし夜

自らの手で断ち切った

雪原を染し深紅の骸


目の見えぬわしだとて

その凄惨たる光景には想像がついた

芯が凍えるまでに冷たくなった身体は固く、何の反応も示さない


判りきっていた…


なれど亡骸を抱え

何度も、何度も名前を叫んだ



あれ程まで己が感情を剥き出しにして

慟哭したのは最初で最後であったな…



今思い出しても尚、胸が締め付けられる悲しくも過ぎ来し方


一人残されしはわしだけ…か、


そうポツリと呟く豹馬は一刻の間 、胸懐に沈む





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