小説

□¶境界状況報告.
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「我慢…?」

「おう」

「誰がだ」

「今てめーの話してたんじゃねーのかよ!?」

「貴様が勝手に始めたのだ、我が輩は知らん」

「知らんで通るか!この惨状を見りゃあ嫌だって気にしたくもなるわッ!!!」

「…フム」

惨状か・・・言われてみればそうなのかもしれん。


今事務所の床は、ティッシュという名の薄い紙で埋め尽くされている。
だがそれ自体が問題なのではなく、
問題なのは、それが全て『赤い』という辺りだろう。

我が輩の血液を吸い込み、丸められ放り出された赤い紙の海は、不意にここを訪れた男の目に異様な惨状となって映ったようだ。


そして、それを掻き分けながら入ってきた吾代は、まずヤコの不在を確認したあと、鼻にティッシュをあてがったままの我が輩に向け、こう言った。


『よし、今日んところは男同士の話でもしとくか…』



吾代のその言葉を皮切りに、会話は現状まで至っている―――――――――


驚いた事に吾代は、この原因不明の大量の鼻血を我が輩の『我慢』のせいだと言った。


「貴様には我が輩が何かを我慢しているように見えるのか?」

「…こんだけあからさまな証拠ぶち撒いといて、見える見えねぇもねーだろ…」

吾代は今や赤い海から赤い山へ進化しようとしている、ティッシュに視線を移して呟いた。


自慢だが我が輩、他人には我慢を強いても、自らに我慢を課すなどという趣味はまったく無い。

まあ、常に空腹に耐えてはきたが、その腹いせをぶつける対象は、目の前の吾代を含め2人程いる。
現に吾代がここを訪れる1時間前まで、我が輩はヤコへの虐待を楽しんだのだから、
もしあったにせよ、我が輩の我慢は消え、増えたのは寧ろヤコの我慢の方だろう。


なのに何なのだ・・・?
吾代のこの哀れむような表情は。


「まあ…世の中の16がどうだとしても、探偵はまだまだガキだ。
てめーの気持ちも身体も、そう簡単に受け入れちゃくれねーよ」


受け入れる・・・?
何の為にだ?
侍従関係とは一方的な支配の下でのみ成り立つ。
そこにヤコの意志など無用のはずだ。

「いいか化物、これは探偵には勿論内緒だが…」

言いながら衣服から何かを取り出した吾代が、トロイにズイッと身を乗り出してきた・・・・が、


――――――――ガスッ!


「てめーは…人が心配してやってんのに何のつもりだ!!」

我が輩の靴底に潰されたままの顔が喚いた。
むさ苦しいにも程がある。

「防衛本能だ。貴様のドアップは我慢の限界を軽く超える」

「どーせ限界なんか超えてんだろーが!今更んなモン発動させてんじゃねえ!!」

蹴りつけた衝撃で、吾代の指を離れた1枚の毒々しい色合いの紙が、我が輩の前に舞い降りてきた・・・



「…これがどうした?」

「最近駅前に出来た店だ。ここに来る途中で渡されたんで、ポケットに突っ込んだまま持って来ちまったんだが…
てめーにはお誂え向きなんじゃねーかと思ってな」

そう言うと吾代は、既に靴底から解放された顔を片手で押さえながら、その紙の裏側を指した。
それを裏返してみると、そこには・・・・


“真性のドMが貴方様をお待ちしております”


「…我が輩の嗜好に沿った場所のつもりか?」

「探偵だって一生ガキのまんまじゃねえだろうが、大人にゃ大人の事情ってモンもあらぁ…
たまには抜いとかねーとまた出るぜ、鼻血」


なる程・・・

我が輩は漸く吾代が言った『我慢』の意味を理解した。

要するに出血の原因は、我が輩の性的抑圧が限界を超えた事によって、
高まった内圧が身体に変調をきたし鼻からの出血に繋がった・・・と、そう言いたかったらしい。

勿論、我が輩にも性欲と呼ぶべき物は存在するし、それが稀に高まる事が無い訳でもない。
それでも、我が輩の生きる理由は食欲だ。
その絶対的理由を前に、半端な性欲など顔を覗かせる隙もなく消化されている、と、そう理論づけてきたのだが・・・・

それが全て未消化のままくすぶり続けていたとすれば、我が輩の体内で内圧異常を引き起こす可能性が無いとも言い切れない。
だがそれを引きずり出した直接的な原因が何であったのか・・・思い当たる物は何も無かった。


しかし・・・出血のせいで突っ込むのを忘れていたが、吾代の話に度々ヤコが出現しているのは何故だ?
確かにこの出血が始まったのはヤコがここを出た直後だったが、
その事実のみで、因果関係など成立するはずがないではないか。


「あ、それと誤解のねえように言っとくが、俺が進めたのは探偵を待つ間限定の緊急的な処置でだ。
バレたら全てが終わる…だから絶対にハマんじゃねーぞ!」

・・・またヤコか。

確かに我が輩はヤコを待ってやってはいるが、それは進化を望むからだ。

それに、


「…例えばだが、我が輩がその店を訪れたとして、何故ヤコの顔色を窺う必要がある」


ヤコにバレたとして何が終わるのか・・・それも解らん。

「バカかてめーは!女は男の事情なんざ理解しちゃくれねえんだよ!あの年頃の娘なら尚更、完璧無理だ!断言出来る!!
その後の展開は売り言葉に買い言葉の応酬で・・・
まず間違い無くてめーを振り向いてくれる未来なんか訪れなくなっちまうんだよ!!!」

吾代の脳裏を何かが過ぎったのか、うっすらと目に光る物が溜まってきた。


「………それは貴様の経験談か?」

「んなこたどーだっていいだろがぁぁッ!!!!」


どうやら図星のようだ。
過去への怒りで我を失った吾代が、手の甲を我が輩に向け中指を突き立てて見せた。

「うぎゃあッ!!?」

その目障りな指を、普段あまり曲げない方向へ曲げてやりながら、我が輩は丁重に言葉を返す。


「吾代、貴様の好意は大変有り難いのだが…「マテマテマテこれが有り難がってる行為か!!?」

「いや、凡庸な貴様等に理解出来んのも無理はないが、我が輩が求めているのはドM等ではないぞ?「もういい!何求めててもいいから放せ折れるッ!!」

「まあ聞け、相手が拒絶するからこそ虐待にもなり、拷問にも成りうるのだ。
…このようにな「ガハッ!?」

仕上げに指を弾いてやると、吾代の身体は勢い良くティッシュに埋まった。

「人の指で実演すんじゃねえクソが!!あと1ミリで完っ璧折れてんぞコレ!!!」

「だがこれで分かっただろう…最初から屈している女など、我が輩には必要ないのだ」

「ああそーかよ!鼻血も止まったみてーだしてめーなんか二度と心配…」

――――ガチャッ!―――


吾代が捨て台詞を言い終える少し手前で、勢い良くドアが開き、聴き慣れた声がこの場所を満たした。


「ちょっ!ここ何の殺人現場!!?」

「た…探偵、てめー帰ったんじゃ…」

「うん、そうなんだけどちょっと、忘れ物しちゃって…
てかなに?2人でなにやってんの…?」

「い…いや、なんもしてねーって!探偵が気にするような事は1ミリだってねえから頼む!気にすんな!!」

「……吾代さん怪し過ぎ」

あからさま過ぎる吾代の反応に怪訝な表情を浮かべつつも、ヤコは事務所一面のティッシュの山をせっせと特大のゴミ袋に詰め込み始めた。


馬鹿め・・・
そんな事だから貴様は報われんのだ。
バラしたくないのなら、我が輩のように堂々としていろ。
その上で証拠の隠滅を図れば何も問題は無いは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・無い。


証拠が消えた。



吾代が持っているのか・・・?
いやそれは有り得ん。
吾代を弾くまでは確かに我が輩の目の前にあったはずだ。
・・・・ではいったいどこ「なにこれ?ティッシュじゃないのが一枚混じって「あっ!!化物てめーバカか!何でちゃんとしまっとかねーんだ!!」


・・・・馬鹿は貴様だ。


「ふーん…吾代さんの落とし物なのかと思ったけど、これ、ネウロのなんだ…」

「…あ」


吾代・・・貴様のフォローは最早悪意の塊に過ぎん。
溜め息一つ、いや呼吸すらする権利はない。

・・・いや、そもそも何を臆する事がある?
我が輩は元々行くつもりなどなかったのだから、その紙をヤコ本人に捨てさせれば何も問題は「弥子ちゃん、まだか?」


我が輩がヤコに声をかける一瞬手前で、開いたままのドアから見知った男が顔を覗かせた。


・・・・・・・・・

「あ、笹塚さん…待たせてごめんなさい。
ネウロがちょっと散らかしちゃって…」

「テメーは!…何でここにいる!?」

「…ああ、俺は「笹塚さんがケーキバイキングに誘ってくれたの♪」

「え…いや「で、車でここ通りかかったら忘れ物思い出して、 つ い で に 取りに寄ってもらっただけだから、直ぐに帰るね!」

「お、おい弥子ちゃん…」

ヤコの掌が笹塚の腕を捉え、まるで急かすように、その腕を自分の身体に引き寄せた。


「…笹塚刑事、先生がいつもご迷惑ばかりお掛けしてすみません」

「あーいやぁ…こっちこそ世話になりっぱなしだから、たまにはな…」

「丁度良かった、僕もこれから用事があるので出掛けてきますね、先生」

「うん…わかった」

「お…おい探偵」

「ああそうだ先生、お出かけの前に…」

「な…なによ」

「その紙は置いて行ってくださいね?まだ詳しい住所を覚えていないので…」

「・・・・・・・・・・」

「た、探偵その紙捨てろ!んでもってバイキングも行くな!ケーキなら俺があとで…」

「いいよ、吾代さん…」

「どうしました?…先生」

「…なにが?どーもしてないよ?
はい、ここに置いとくね」

ヤコは握り締めていた風俗店のチラシを、トロイの上に置いた。


「あ、急がないとお店閉まっちゃう。笹塚さん行こ!」


密着するヤコと笹塚・・・
我が輩はその2人の間を引き裂くように、言葉をねじ込む。

「楽しんできてくださいね……僕もたまには、楽しませてもらいます」

「ぉおい化物!!」

焦りの頂点を極めたような吾代の声にも反応する事なく、
我が輩は貼り付けた笑みのままで見送り・・・

ヤコは無言のままで、事務所を出て行った―――――







・・・笑える展開だな。

吾代が言った、バレたその後の展開・・・

『売り言葉に買い言葉』

図らずも我が輩とヤコは、それを実演する形となってしまったようだ――――――――――――――――






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