09/11の日記
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やさしい手〜天界編 登場人物紹介
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律→死神を仕事としている天界族。吸血鬼と死神のハーフ。
月(ユエ)→天界幹部の人。視力を失っている。みんなの人気者。
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00:39
やさしい手〜天界編
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飢え。
渇き。
渇望。
水で喉を潤しても癒えない渇き。
満たされない飢え。
いつも隣にいる人が今はいない。
律は喉の渇きに堪えられなくなり、円卓に突っ伏すと、そのまま床に引きずられるように膝をつく。
円卓にすがり、倒れないようにするのが精一杯だった。
上がった息の調子が戻らない。
「はあ、はあ…くっ!」
定期的に襲ってくる飢えと渇きに絶望され感じる。
吸血鬼の血が騒ぐ。
血が欲しいと、身体が意識とは関係なく訴える。
赤い似たような飲み物ではごまかし切れない。
身体が小刻みに震えてわななく。
本当は欲しくなどないのに。
吸血鬼と死神の間に生まれた律は、吸血鬼の血を色濃く受け継いでいた。
天界では死神の仕事をし、きっちり与えられた任務をこなしているが、時々こうして、吸血鬼特有の発作に見舞われる。
終わることのない吸血鬼の苦しみ。
ただ、半分流れている死神の血のおかげで、元来の吸血鬼ほどの弱点は持ち合わせていない。
日中、外出することもできるし、特別気を遣うほどでもない。
ただし、それでも日の光は苦手とするものだったが。
律は頭を抱えて髪を掻き乱す。
「誰か助けて…」
こんな時、いつも傍にいて、助けてくれる人物がいたのだが、今は望めない。
同じ吸血鬼と死神のハーフでありながら、律ほど、吸血鬼の血に惑わされない人物。
律の片割れで有り、ふたりでようやくひとつになれる、その存在。
律の双子の弟。
律の飢えから救い出してくれる唯一の存在である。
しかし、その弟は一年前から行方不明になっていた。
捜索を強化するため、人間界への長期滞在許可も上からもらった。
詩や琴がいる凛太郎の家に今でも世話になっている。
普段は死神の仕事が多いため、こうして天界の自室にいることも多いのだが。
人間界に留まる場所があると便利なのもまた事実。
仕事をこなしつつ、天界と人間界を行き来し、ありとあらゆる場所を探したが、未だに弟は見つからない。
どこへ行ったのだろう。
このままでは、巻き込みたくない者まで吸血鬼の血によって、傷つける可能性もある。
血が欲しい。
止まらない渇望。
律は意識を保つのも精一杯なところまできていた。
「うぅ…」
とりあえず身体を動かそう。
律は力の入らない足を無理矢理動かし、膝を立てようとした。
うまくいかない。
自分が立っているイメージを浮かべて、もう一度、力を入れようとする。
ドクン。
「く、ふっ…!」
血が騒ぐ。
身体が血を求めてやまない。
飲め、飲め、早く飲め。
耳元で自分の身体が囁く。
意識を手放したい。
考えていたくない。
身体に、吸血鬼の血に。
支配されたくはない。
ガタン!
円卓が勢いよく倒れ、弧を描く。
律は襲い掛かる行き場のない渇望に耐え切れず、身体に力を注ぐのをやめた。
倒れている方がいい。
苦しみに耐えている方がいい。
いっそこのまま尽き果てるのも悪くない。
律は震える身体を小さく折り曲げた。
涙が頬を伝う。
見つからない弟。
消えない渇望。
全てが忌ま忌ましかった。
生きることも投げ出してしまいたい。
活力はさほど残ってはいなかった。
律が次に目を開けた時には、見覚えのない、白い壁が視界一面に広がっていた。
ここはどこだろう。
意識がはっきりしてくると、寝台に寝かされていたことが分かった。
誰かが運んできてくれたのだろうか。
律は深呼吸を繰り返す。
あれだけ激しく続いた吸血鬼の渇望はいつの間にか落ち着いていた。
それどころか満たされている。
誰かの血を口にしてしまったのだろうか。
恐怖が律を支配した。
無意識のうちに誰かを襲ってしまったのかもしれない。
それこそ赦されない罪だ。
青ざめた律は真相を確かめようと、慌てて寝台から降りようとする。
その時、よく知る者の香が香った。
それは、部屋に入って来た人物の香水の香だった。
「気がつきましたか?」
「月(ユエ)さま…」
天界の幹部に属する者、いわば神様の月(ユエ)が律の元に歩み寄る。
「まだ寝ていないといけませんよ」
寝台から抜け出そうとしていたのが分かったのか、律を寝かしつけようと促す。
「…月さま、わたくしは…」
律が口を開こうとするが、月はふっと微笑み、そっと律を大きな腕で抱きしめた。
「大丈夫ですよ。今は安心して眠るといいでしょう。ここのところ働きすぎでしたし。疲れも出たのでしょう」
「…はい。…そうかもしれません、ですの…」
月の腕の中は大変心地よかった。
いつも誰にでも優しい月。みんなに好かれているのも頷ける。
律も大好きな人だった。
その月に云われてはおとなしくしていないわけにもいかない。
素直に寝台に横になる。
「律は仕事に一生懸命すぎます。たまには息抜きをしないと、そうやってまた倒れてしまいますよ」
「…はい」
吸血鬼の発作で倒れただけなのだが。
仕事の疲れも引きずっていたのだろうか。
あまり自覚はないが。
それにしても、なぜ発作が収まったのだろうか。
血を口にしない限り落ち着かないはずなのだが。
律は気になって月に聞こうと口を開きかけた。
…が、左手首に巻いた包帯に気付き、表情に影を落とす。
今、身体の中にあるのは月の血だ。
律は一瞬にして青ざめた。
「おや? どうかしましたか?」
月は急な変化に気付き、律の額に手を伸ばした。
「まだ調子がよくないのでしょうか」
律は大きく首を降って月に飛び付いて身体を震わせた。
浅ましい。
自分の身体が。
生きていることが。
血をもらわなければ生きていけない。
そんな自分が大嫌いだった。
他の人に血をもらってまでも生きていたくない。
「…わたくしが、月さまの血を…口にするなんて、こと…」
月はその言葉に、やれやれと子供をあやすように律の頭を優しく撫でてやった。
「律…。あまり自分を責めてはいけませんよ。律は一生懸命やっているではありませんか。私はそれをよく知っていますよ」
律は無言で首を横に振る。
「ちょっと違った形でのお給料、という形でいいではないですか。私は律のためでしたら喜んでなんでも差し上げますよ。独りで抱え込むのは、もうよしなさい」
「…月さまは、やさしすぎますの…」
声を押し殺して啜り泣く。
月の優しさは嬉しい。
しかし、縋り付くにはあまりに自分は醜い。
「あなたはいつでも優しさを求めています。声を出して、泣いてもいいのですよ。ここには私しかいませんから」
その言葉を皮切りに、律の張り詰めていた何かが切れた。
律は初めて声を出して泣いた。
拭いきれない苦しみ。
抑え切れない渇望。
認められない自分自身。
全ての感情が涙となって溢れ出た。
月は泣き止むまで律にやさしい言葉をかけ続けた。
偽りではない、確かな愛情が感じられた。
だからこそ、皆に慕われ、愛されている。
愛されているなら愛したい。
信じられるのは血を分けた弟だけだと思っていた。
天界にいながらも、誰一人本当に信じられる者などいなかった。
ただ、仕事だけをこなす無感情なそれ。
周囲からも冷たい目で見られていてもいいと思っていた。
けれども。
間違いだった。
すぐ傍にこんなにも温かい存在があった。
月だけではない。
琴も詩も、凛太郎も、いつも律に手を差し延べようとしていた。
手を取ることは甘えだと思っていた。
しかし本当は、それぞれの愛情だった。
受け取るのもまた悪いことではない。
また違う形で返せばいい。
「少し落ち着いたようですね」
月は呼吸が元の律動を取り戻したことに安心し、律から離れた。
そして、瞼の裏に隠された目で、まっすぐ瞳を見据える。
見つめられているような気になり、律は少し頬を赤らめる。
「これからは私をいつでも頼るといいですよ。それにあなたの周りにも、たくさん力になる人たちがいることを、忘れないでくださいね」
「…はい」
律は笑みを浮かべて返事をした。
「やはり、律は笑っている方がいいですよ」
「…見えていらっしゃいますの?」
月は視力を失っているはずなのだが。
「いえ。ものの流れがあなたの表情を伝えてくれます。私の目は何も映しませんが、この世の中の全てのものが私の全てなので」
「…よく分かりませんの…」
規模が大きすぎて想像もつかない。
おそらく月は、視力を失ったことから、不思議な力を身につけたのだろう。
視力を失うこと自体が想像できないが、見えない部分を補うなにかを得たに違いない。
そう思うことにした。
「…あと、重大なことを告げなければなりません」
「…重大な? …なんですの?」
律は首を傾げる。
「あなたの弟さんが見つかりました」
「!?」
信じられない事実を耳にして、律は目を見開いた。
「まだが片付かないことがあるようですが、見つけた時に応援を送りましたので、おそらく、ひと月くらいで戻ってくるはずですよ」
弟が帰ってくる。
律の表情が明るくなった。
「怪我もなく元気ですごしていたみたいですよ。だから、今は安心してゆっくり休んでください」
月はそっと律の頭を撫でた。
なんだか少しくすぐったい。
「…月さまは、この後ご予定がございますの?」
「…なんだか急に甘え上手になりましたね」
月は嬉しそうに口元を緩ませた。
「…あの、無理は承知でお願いしますの。…わたくしが眠れるまで傍に欲しいです、の…」
いざ言葉にすると恥ずかしくなり、律は布団で半分顔を隠した。
頬がほてっているのがよく分かる。
「無理ではないですよ。その願い、お受けしましょう」
月は寝台の傍に腰を落ち着かせた。
律はますます赤くなり、布団に隠れるが、小さい声で礼を述べ、そっと月に手を伸ばす。
月はその小さな白い手を大きな両手で優しく包み込んだ。
律が眠りについても、月はいつまでも傍で、見守っていた。
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